「丹内山神社」(花巻市東和町)を訪れたの4度目です。正確に言えば、境内の入り口付近で帰ったのが3度、初めて境内に足を踏み入れました。3度ともに何故か境内に入ることが出来ませんでした。4度目にして、ついにアラハバキ大神の巨石を参拝することが出来ました。強烈なパワースポットです。
アラハバキ大神の巨石

 


由縁によると、丹内山神社は承和年間(834年-847年)に空海(弘法大師)の弟子日弘(にっこう)によって創建されたとされています。当初は「大聖寺不動丹内大権現」と称して、以来、神仏混淆(しんぶつこんこう)による尊崇をうけてきたそうです。
坂上田村麻呂は東夷の際に参寵しています。平安後期は平泉の藤原氏、中世には安俵小原氏、近世は盛岡南部氏の郷社として厚く加護されてきたと伝えられています。

歴史を見れば、時代時代の中心人物が崇拝してきた神社であり、とても重要な場所だったと思われます。


私が丹内山神社に興味をもったきっかけは、高橋克彦氏の「火怨  北の燿星アテルイ(講談社文庫)」です。火怨では物部氏が東和に拠点を置き、アラハバキ大神の巨石を物部の繁栄の神として信仰します。
物部が蝦夷の資金援助を行い、蝦夷の指導者である阿弖流為(アテルイ)らは東和で兵の鍛錬を行います。若き阿弖流為はアラハバキ大神の巨石前で、数年後に坂上田村麻呂と対峙する場面を予見します。

荒俣宏・高橋克彦の岩手ふしぎ旅(実業之日本社)」という本では、丹内山神社とアラハバキ大神の巨石を2人が訪れます。荒俣さんは衝撃を受け、高橋さんは自分の仮説を確信するかように熱く語ります。
神社の歴史をみると、もっと注目されて良い場所だと思います。同書でいう"隠す"ということが働いているのか、歴史上消されなければならないのか、ひっそりと信仰が守られている印象を受けます。 このことは、以前ブログで紹介した同じ東和町内にある「成島毘沙門堂」とは対照的に映ります。


丹内山神社は花巻市東和町の東部に位置しています。国道283号線から猿ヶ石川を渡り、山の中を進みます。
石が多く点在する猿ヶ石川です。遠野から流れて来る川で、この川を眺めているだけでも落ち着くものがあります。
猿ヶ石川

しばらく進むと「丹内山」と書かれた大きな赤鳥居があります。ここから更に山の方に進みます。 両脇に稚児柱がある「両部鳥居」で仏教の影響がある明神系です。 高さ606cm、幅445cm、柱径46cm、笠木長876cmという大きさです。    
赤鳥居

嘉永元年(1848)に建立されたもので、当時は南部藩随一の杉の大鳥居といわれていたそうです。
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鳥居から周りを眺めると、田園や雄大な山並みが広がります。
鳥居付近の風景

鳥居付近の風景 


赤鳥居から更に進み、県道284号線に入って間もなく、左手に丹内山神社の鳥居と参道が見えてきます。鳥居と参道

上から見た参道です。
上から見た参道


車の場合には300mほど進むと看板が見えてきます。
車用の入り口を山の中に進んでいきます。
自動車用入り口

この辺りは岩が多い場所のようで、途中に大きな岩が点在する場所があります。
法面の岩


立派なトイレがある場所に駐車場があり、そちらに車を停めて境内に進みました。

高台にありますので、眺めがいいです。
眺め

境内は上段、中断、下段となっており、参拝順路があるとのことです。
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由来を見ると、歴史上、重要な場所だったことが分かります。
由来


境内入り口から眺めると、神秘的な雰囲気が漂っています。以前、来たときはここから先に足を踏み入れることが出来ず、引き返してしまいました。
境内入り口

境内入り口



本当は参拝順路順に紹介すべきですが、下段から紹介します。丹内山神社には7不思議があるのですが、次回紹介したいと思います。

駒形社
境内に入ってすぐ左に駒形社があり、向かって右に牛、左に馬の眷属を配します。この日は駒形社で神事が行われていました。
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御神木爺杉の根株
根元回り12.12m、高さ約60m、樹齢2000年の古木と伝えられているそうです。大正12年に延焼により焼失しましたが、根株を保存しているそうです。
御神木爺杉の根株


四ノ鳥居
最初に紹介した赤鳥居と同じ形式で小さ目の鳥居です。
四ノ鳥居


舞踊殿と銀杏
舞踊殿という舞台があります。その横には銀杏があり、銀杏は7不思議の一つに数えられています。次回、紹介します。地面を銀杏の葉が埋め尽くして、黄色い絨毯のようでした。
丹内山神社には雅楽が伝承されており、こちらの舞台が使われるのかもしれません(未確認)。丹内山神社雅楽は、江戸時代の文政12年(1829年)に、当時の宮司が盛岡の桜山神社で習って、丹内山神社の祭りに取り入れたそうです。休止時期もあったようですが、明治20年(1887年)ごろに地元の者を盛岡八幡神社で習わせて、今日まで伝えられているようです。笙(しょう)、篳篥(ひちりき)、横笛(おうてき)という楽器で、「越天楽(えてんらく)」と「五常楽(ごじょうらく)」が演奏されるそうです。
舞踊殿と銀杏


御神楽殿
こちらは神楽の舞台のようです。 広場には舞台が2つあります。
丹内山神社には「社風流神楽(みやぶりかぐら)」という神楽があるそうです。丹内山神社には江戸時代の宝暦9年(1759年)、早池峰岳流山伏神楽(はやちねたけりゅうやまぶしかぐら)が伝わっていたそうです。明治初めの排仏毀釈(はいぶつきしゃく)の際に、当時の宮司が山伏神楽の仏教的部分をなくし、能を取り入れ、古事記を基に作り直したそうです。
御神楽殿


源義家弓射場跡
源義家がこの石の上で弓を射たと伝えられているそうです。源義家(八幡太郎)と言えば、以前ブログで紹介した「穴八幡宮(穴八幡神社)」(東京都新宿区西早稲田)もゆかりの地となります。八幡信仰は義家が広めたとされ、武士の守り神として全国に広く勧請されました。源義家弓射場跡



八幡神社、賀茂神社
源義家の父、頼義が東征の際に宿陣し、朝敵追討を祈願したと伝えられているそうです。
小さな社が2つ並んでいます。社を守るために屋根がかけられています。
八幡神社 康平5年八幡太郎義家勧請
加茂神社 康平5年加茂次郎義綱勧請
八幡神社、賀茂神社


疱瘡神、安産神、雲南神
3つの社が並びます。
疱瘡神、安産神、雲南神


相殿、祖霊社、観音堂
こちらには十一面観音立像が収められているようです。
相殿、祖霊社、観音堂

十一面観音立像は平安時代後期につくられたものです。平泉藤原氏からの寄進とされています。一木造りで158cmの像です。廃仏毀釈で、凌雲寺に移されたそうですが、その後1体のみ戻されたそうです。(凌雲寺は以前ブログで紹介しています)
十一面観音立像


ここからが中段となります。

五ノ鳥居
正面を向いた狛犬の先に五ノ鳥居が見えます。本殿の前にあるのが五ノ鳥居となります。
五ノ鳥居

まっすぐ正面を向いた狛犬(あ)です。
狛犬


肌石
五ノ鳥居の前を左に進むと、石柱に囲まれて肌石という石があります。7不思議の一つです。
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早池峰山参拝石
肌石の後ろがわに早池峰山参拝石と掘られた石が祀られていました。
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玉垣の下には池があり、橋を渡って拝殿に入ります。 石橋の欄干には擬宝珠があり、文政10年(1827年)に丹内山神社別当の実吉が納めたという記録があります。
拝殿下の池


徳行顕彰碑
徳行顕彰碑という石碑が池の中に立っていました。 池には人工的な一筋の噴水がありました。
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石橋を渡って上段の拝殿に向かいます。丹内山と書かれた門をくぐります。
門


御水屋
拝殿の右奥に自然の水を引いた御水屋がありました。
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御本社
丹内山神社の本殿です。文化7年(1810)に再建されたものだそうです。後ろに見えているのがアラハバキ大神の巨石です。
御本社


拝殿 

黒に塗られた角のある彫刻がありました。
拝殿

拝殿

外壁には中国の古事や古事記・万葉風の彫刻があり、脇障子は唐獅子が彫られています。見事な彫刻です。壁画の彩色壁彫刻は名工の千葉八重郎作だそうです。
外壁の彫刻

これは万葉風の彫刻だと思います。
万葉風の彫刻

丹内山神社と本殿について詳しい説明書きがありました。
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"この神社の創建年代は、約千二百年前、上古地方開拓の祖神、多邇知比古神(たにちひこのかみ)を祭神として祀っており、承和年間(834年-847年)に空海の弟子日弘(にっこう)が不動尊像を安置し、「大聖寺不動丹内大権現」と称し、以来、神仏混淆(しんぶつこんこう)による尊崇をうけ、平安後期は平泉の藤原氏、中世には安俵小原氏、近世は盛岡南部氏の郷社として厚く加護されてきたと伝えられる。さらに、明治初めの排仏毀釈(はいぶつきしゃく)により丹内山神社と称し現在に至っている。
この本殿は、現存の棟札によると、文化7年(1810)に再建されたもので、盛岡南部利敬公の代、当時の別当は小原和泉實吉であり、棟梁には中内村の吉重郎、脇棟梁に八重郎・宇助が造建にあたったことが知られる。
この建造物の特徴として、本殿の内陣には、権現づくりの厨子が据えられており、正・側面の外壁一面に中国の古事や古事記・万葉風の彫刻、脇障子は唐獅子と牡丹が彫刻されている。県内の社寺建造物の内では彫刻装飾優位の建物で、当時の地方大工の力量を知ることができる貴重なものであり、平成2年5月に県指定有形文化財(建造物)となっている。
又、本殿の左側山頂付近の経塚(県指定史跡)から全国でも数個しかないと云われる影青四耳壷(いんちんのしじこ、白磁無紋の壷、北宋の花瓶)、湖州鏡、中国古銭、経筒など(県指定文化財)が出土しており、平安時代末期頃から地域の優れた文化の跡が偲ばれる"



アラハバキ大神の巨石
いよいよ、アラハバキ大神の巨石です。巨石の存在感とともに、周りの森の雰囲気に引き込まれます。
アラハバキ大神の巨石

アラハバキは荒覇吐、荒吐、荒脛巾と漢字で書かれ、起源について諸説あるようです。縄文神説、蝦夷の神説、蛇神説、足腰の神説、塞の神説、製鉄の神説などがあります。

偽書とされる「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」に大和朝廷から弾圧されて津軽地方で栄えた文明とアラハバキ神が登場します。
「東日流外三郡誌」は青森県五所川原市の和田喜八郎氏宅の天井裏から発見されたという古代文書です。偽書とされていますが、物語として面白そうなので読んでみたいものです。


観光協会の説明看板がありました。他の説明看板には登場しませんが、ここだけに物部氏が出てきます。火怨での高橋さんの説を思い出します。阿弖流為もこの地に立ったのかという感慨深い思いに駆られました。
説明書き
"千三百年以前から当神社の霊域の御神体として古から大切に祀られている。地域の信仰の地として栄えた当社は、坂上田村麿、藤原一族、物部氏、安俵小原氏、南部藩主等の崇敬が厚く領域の中心的祈願所であった。安産、受験、就職、家内安全、 交通安全、商売繁盛の他、壁面に触れぬよう潜り抜けると大願成就がなされ、又触れた場合でも合格が叶えられると伝えられている巨岩である"

歴史から消えたはずの物部氏が、東和のはずれにある神社に現れるというのは面白いと思います。


埼玉県大宮の「氷川神社」ではアラハバキが「客人神」として祀られています。日本の製鉄発祥の地である出雲の流れを組むそうです。鍛冶氏族である物部氏の流れを組んでいるとされます。

アラハバキの謎を解くと、物部氏につながっていくような気がします。


巨石にはしめ縄が張られています。大きさは幅11.6m、奥行き9.3m、高さ4.55mとされています。
アラハバキ大神の巨石


胎内石とも呼ばれています。 安産祈願の巨石でもあります。

この穴を「壁面に触れぬよう潜り抜けると大願成就がなされ、又触れた場合でも合格が叶えられる」そうです。どちらにしてもOKなのです。
胎内石

巨石の上には木が生えていました。
木が生えている


森に囲まれた場所にあり、沢の水が流れる音だけが聞こえます。いつまでもここに居たいと思ってしまいました。とても居心地がよく、パワーを得られる場所でした。
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火怨での阿弖流為のように、将来を予見することは出来ませんが、気持ちを落ち着けて考え事をするには最高の場所ではないでしょうか。
(ただし、暖かい時期には虫やら蜂やら、蛇、動物が現れそうな場所です。ゆっくり見学するには11月頃がお薦めかもしれません...。)




次回、丹内山神社の七不思議を紹介します。



(おまけ)
以前のブログ記事と記事内での「荒俣宏・高橋克彦の岩手ふしぎ旅(実業之日本社)」の引用を紹介します。

"以前、花巻市東和町の成島毘沙門堂にある巨大な兜跋毘沙門天立像を見て来ました。高さ4.73mもあり、見るものを圧倒する毘沙門天立像です。
同じく東和町にある丹内山神社のアラハバキ大神の巨石は、『火怨』の中で物部氏が協力して蝦夷の鍛錬をおこなった場所として登場します。『火怨』を読んで、丹内山神社に2度ほど足を運びました。
この2つ場所について、本書で興味深い高橋氏の話がありました。

"兜跋毘沙門の一番の役目というのは、艮(うしとら)の金神(こんじん)を封じるためで、都の羅生門にも、艮の方角(北東)を守るために兜跋毘沙門天が安置されている。その羅生門の兜跋毘沙門天から艮の方角へ真っすぐ一直線を引くと、東和町のあの兜跋毘沙門天にぶつかる。その兜跋毘沙門天がにらんでいるところが、なんと丹内山神社だ。 "  (P111)

Googleマップで線を引いてみました。羅生門から北東に一直線に線を引くと、確かに兜跋毘沙門天立像にぶつかりました。
兜跋毘沙門天立像から丹内山神社に線を引いてみました。現地に行って地図を照らし合わせる必要がありますが、記憶の範囲では兜跋毘沙門天が見ている方向に丹内山神社があることが分りました"

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