下町散歩の殿堂ともいうべき谷根千(谷中、根津、千駄木)を紹介します。このエリアは12、3年前に散策して以来です。当時は「谷根千」という言葉はありませんでしたが、 久しぶり谷中、根津、千駄木を堪能しました。 (マップは最後に紹介します)
休日でしたので、カメラをぶら下げた人たちが多く歩いていました。さすがに下町散歩の人気エリアです。
谷根千には 戦災を免れた古い建物が多く現存しています。 本郷台地などの地形を体感できる場所も多くあります。
谷根千の象徴 夕焼けだんだんから谷中ぎんざ


JR日暮里駅からスタートしました。最後に地図を紹介します。

日暮里駅の陸橋から山手線と京浜東北線を眺めます。とてもいい天気でした。
日暮里

谷中銀座方面に向かいます。


そば川むら
お昼過ぎでしたので、駅近くの「そば川むら」に立ち寄りました。
そば川むら

壁のメニューで目に止まった「みちのくそば」を注文しました。山菜、とろろ、おろしなめこの3色そばです。細麺の美味しいそばでした。
みちのくそば 



延命院
お腹を満たして延命院に立ち寄りました。
延命院

日蓮宗のお寺で開基は4代将軍家綱の乳母三沢局とあります。
七面大明神と延命院の大椎

七免大明神安置石塔

境内には「延命院のシイ」があります。天保7年(1836)の「江戸名所図会」に描かれていた老樹だそうです。
シイの木

かつては幹回りが5.5mあったそうです。
延命院のシイ 


菓招庵 かみくら
上品な甘さで谷中土産として人気の「どらやき」が有名なお店です。今回は我慢して先に進みます。
菓招庵 かみくら


暮らしの道具 谷中 松野屋
夕焼けだんだんの階段手前に気になるお店がありました。様々な道具が店先に置かれています。

谷中 松野屋


夕焼けだんだん
谷中銀座方の手前に階段があります。その階段から商店街の向こう側には美しい夕焼けを眺めることが出来ます。写真は日が高い時の写真です。
谷中銀座は凄い人です。まるで観光地のようでした。13年前に来たときには、ここまで人がいなかったと記憶しています。
夕焼けだんだん 谷中銀座


谷中銀座
戦後に自然発生したと言われる商店街です。商店街は200m程だと思われます。
食べ歩きしたい魅力的な惣菜や甘いものが売られていました。ここも我慢して通り抜けました。
谷中銀座



よみせ通り
谷中銀座を通り抜けると「よみせ通り」に突き当たります。延命地蔵尊のイラストは俳優の中尾彬さんの作品だそうです。
この通りは、藍染川という川が流れていました。大正時代に暗渠化された道路です。都営染井霊園付近から不忍池に流れています。昔はシジミが採れたそうで、シジミ川とも呼ばれていたそうです。
写真は谷中銀座から左折して、南へ少し進んだ場所です。
よみせ通り

台東区循環バス「めぐりん」が走ってきました。この先を進むと、ヘビの様にグネグネした「ヘビ道」があります。藍染川が流れていた名残りを感じることが出来ます。
よみせ通り
ヘビ道方面には向かわず、ここから左折します。


岡倉天心記念公園
丁字路の突き当たりに「岡倉天心記念公園」(岡倉天心宅跡・旧前期日本美術院跡)があります。
岡倉天心記念公園

岡倉天心宅跡・旧前期日本美術院跡

"日本美術院は明治31年(1898)岡倉天心が中心になって「本邦美術の特性に基づきその維持開発を図る」ことを目的として創設された民間団体で、当初院長は天心、主幹は橋本雅邦、評議員に横山大観、下村観山らがいた。
活動は絵画が主で、従来の日本画の流儀に反対し、洋画の手法をとり入れ、近代日本画に清新の気を与えた。
この場所に建てられた美術院は明治31年9月に竣工した木造2階建てで、南館(絵画研究室)と北館(事務室・工芸研究室・書斎・集会室)からなり、付属建物も2、3あったといわれている。明治39年(1906)12月に美術院が茨城県五浦(いずら)に移るまで、ここが活動の拠点となっていた。
昭和41年(1966)岡倉天心史跡記念六角堂が建てられ、堂内には平櫛田中作の天心坐像が安置されている。 東京都教育委員会"


岡倉天心史跡記念六角堂に安置されている平櫛田中作の天心坐像です。
平櫛田中作の天心坐像


この辺りは旧町名「谷中初音町四丁目」です。町名は鶯の初音にちなんで付けられたようです。
旧谷中初音町四丁目


初音の森
谷中コミュニティーセンターの横を通ります。センターの向かいは防災広場「初音の森」となっています。子供たちが元気に遊んでいました。
防災広場「初音の森」

初音の森というだけあって、木々が生い茂っていました。
初音の森

台地の縁(へり)となっているようで、森の横の階段を上ります。
初音の森の階段


階段を上り、細い通りを通り抜けます。
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御府内88箇所64番「加納院」の赤門を見ながら先に進みます。
御府内88箇所64番「加納院」



築地塀(観音寺)
観音寺の築地塀が見えてきます。瓦と土を交互に練り込んだ土塀です。
築地塀(観音寺)

平成4年に「まちかど賞」を受賞しています。
築地塀(観音寺)

観音寺の門は、突き当たりの丁字路を左に曲がったところにありました。
観音寺

観音寺は赤穂浪士ゆかりの寺だそうです。
赤穂浪士ゆかりの寺



町屋(谷中学校)
観音寺の門がある通りには町屋があります。以前、「谷中学校」という谷中の地域づくりの拠点があった建物でしたが閉まっていました。
町屋

この辺りは「旧谷中初音町二丁目」になります。
旧谷中初音町二丁目



長安寺
長安寺というお寺がありました。
長安寺

加納芳崖の墓があるそうです。
加納芳崖の墓

小さい像ですが十六羅漢像が境内にあります。
十六羅漢




すぺーす小倉屋
小倉質店という質屋の建物を活用したギャラリー「すぺーす小倉屋」です。江戸時代の店舗と大正時代に建てられた蔵を改装したそうです。
すぺーす小倉屋

蔵は3階建ての漆喰土蔵だそうです。
すぺーす小倉屋

この様な古い建物が活用されているのも谷根千の魅力です。
すぺーす小倉屋



寺町美術館&GALLERY
少し通りから奥まった場所にモダンな外観の「寺町美術館&GALLERY」を発見しました。2011年の春にオープンしたばかりです。元剣道場を利用した建物です。中の壁は生杉板が使用されているそうです。
寺町美術館&GALLERY



間間間(さんけんま)
大正8年築の町屋を利用した「間間間(さんけんま)」というお店です。週末はカフェとなり、平日は御稽古場などとして活用しているそうです。保全と活用を両立した素晴らしい取り組みです。
間間間(さんけんま)



こちらも古い建物を利用したお店がありました。この通りには古い建物が多く残っていて、ちゃんと活用されています。
古い建物を利用したお店


変則の交差点にぶつかると左手には広い通りがあります。この区間の一部だけが広くなっており、何か理由があるのだと思います。開発で道路を広くしようとした際に古い街並みを残そうと、住民の反対があったのでしょうか。
銀杏並木

広い方の道路には進まず、右手に進みます。三崎坂を下ります。


伊勢五本店
途中に町屋が残っています。初代伊勢屋五右衛門が酒屋を始めたのが宝永3年(1703)という、創業300年以上の老舗です。現店舗は千駄木に移転したために倉庫として現在も活用されています。明治の建物を昭和11年に改築したものだそうです。
伊勢五本店



招き猫の谷中堂
三崎坂をさらに下ると、2階建ての長屋が現れます。
招き猫の谷中堂

長屋の一角が「招き猫の谷中堂」になっています。手作りオリジナルの招き猫やグッズが売られているお店です。ペットの写真からMy招き猫を作ってもらえるそうです。郵便やメールでも受け付けています。
招き猫の谷中堂



天龍院
寛永7年(1630)に梅岩西堂和尚が神田に創建しました。慶安元年、神田寺町へ移転して、元禄14年(1701)には当地へ移転しています。天龍院

伊東玄朴の墓があるそうです。
伊東玄朴墓 

全生庵
江戸無血開城の功労者である山岡鉄舟が明治16年(1883)、明治維新で国事に殉じた人々を弔うために創建しました。山岡鉄舟や落語家の三遊亭円朝、作曲家の引田龍太郎の墓所があります。
全生庵

山岡鉄舟の墓
山岡鉄舟

三遊亭円朝の墓
三遊亭円朝の墓

引田龍太郎の墓
引田龍太郎の墓

全生庵

三崎坂
三崎坂の由来が書かれた標識を見つけました。
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三崎坂
"「三崎(さんさき)」という地名の由来には諸説あるが、駒込・田端・谷中の3つの高台にちなむといわれる。安永2年(1773)の『江戸志』によると、三崎坂の別名を「首ふり坂」といい、30年ほど以前、この坂の近所に首を振る僧侶がいたことにちなむという。"

首を振る僧侶がいたので別名「首ふり坂」だったとは面白いですね。


三崎坂周辺の案内板「上野のお山散歩」です。
三崎坂



谷中小学校
谷中らしい風情がある台東区立谷中小学校が見えてきます。
谷中小学校


大名時計を模した大きな和時計が学校の前に設置してありました。
大名時計


古い井戸も学校の前にあります。さすが、古い文化を大切にしている谷中にある小学校です。
井戸

 

乱歩(喫茶店)
手前が乱歩です。江戸川乱歩好きの店主が20年程前に開店した喫茶店です。奥が「いせ辰」です。
乱歩(喫茶店)

入り口のドアには猫の絵があります。「ホットココアさらに美味しくなりました」の文字に惹かれます。が、今回は入口だけで我慢です。
乱歩(喫茶店)



いせ辰 谷中本店
千代紙で有名ないせ辰です。江戸後期の元治元年(1864)創業という老舗です。千代紙と和文具、おもちゃ、縁起物の張子などの江戸民芸小物が所狭しと並べられています。
いせ辰谷中本店

 

更に坂を下ります。この道は藍染川が暗渠化された道で、前述の「よみせ通り」につながります。道の曲り具合が川が流れていたことを物語ります。 不忍池側には「ヘビ道」と言われるくねくねした道があります。
埋められた藍染川

 

団子坂 菊見せんべい総本店
団子坂方面に進むと右手に、またまた魅力的なお店が見えてきます。「団子坂 菊見せんべい総本店」です。明治8年創業という老舗です。四角い堅焼き煎餅が名物で、文豪にも愛された味だそうです。
いせ辰谷中本店



団子坂
三崎坂を下りきり、不忍通りを渡ったところが団子坂です。不忍通りが谷のようになっています(根津谷)。

森鴎外の「青年」や夏目漱石の「三四郎」、江戸川乱歩の「D坂殺人事件」、二葉亭四迷の「浮雲」などにも登場する坂だそうです。正岡子規が団子坂の菊人形の様子を『自雷也もがまも枯れたり団子坂』と詠んでいます。

団子坂が発祥のものとして、「菊人形小屋」や「藪そば」、「女性解放運動」があるそうです。
団子坂

坂を上ると石垣が現れます。
団子坂


文京区教育委員会の案内板です。
団子坂

"潮見坂、千駄木坂、七面坂の別名がある。
「千駄木坂は千駄木御林跡の側、千駄木町にあり、里俗団子坂と唱ふ云々」(御府内備考)
「団子坂」の由来は、坂近くに団子屋があったともいい、悪路のため転ぶと団子のようになるからともいわれている。また「御府内備考」に七面堂が坂下にあるとの記事があり、ここから「七面坂」の名が生まれた。「潮見坂」は坂上から東京湾の入江が望見できたためと伝えられている。
幕末から明治末にかけて菊人形の小屋が並び、明治40年頃が最盛期であった。また、この坂上には森鴎外、夏目漱石、高村光太郎が居住していた。 文京区教育委員会"



森鴎外記念館 (観潮楼跡)
以前、文京区立鴎外記念本郷図書館があり、鴎外記念室で貴重な資料を保管していました。 この地は森鴎外の旧住居であった観潮楼跡です。
現在、「森鴎外記念館」として生まれ変わる工事が行われていました。
森鴎外記念館

森鴎外記念館 


森鴎外記念館から少し戻り「団子坂上」の交差点を右に曲がります。
団子坂上



藪下通り
森鴎外の散歩道で、小説にも登場する道です。左手は土手になっていて、土手の下に学校があります。
藪下通り

藪下通り
"本郷台地の上を通る中山道(国道17号線)と下の根津谷の道(不忍通り)の中間、つまり本郷台地の中腹に、根津神社裏門から駒込方面へ通ずる古くから自然に出来た脇道である。「藪下道(やぶしたみち)」とよばれて親しまれている。
むかしは道幅もせまく、両側は笹薮(ささやぶ)で雪の日には、その重みでたれさがった笹に道をふさがれて歩けなかったという。この道は森鴎外の散歩道で、小説の中にも登場してくる。また、多くの文人がこの道を通って鴎外の観潮楼を訪れた。
現在でも、ごく自然に開かれた道のおもかげを残している。団子坂上から上富士への区間は、今は「本郷保健所通り」の呼び方が通り名となっている。 文京区教育委員会"


本郷台地を体感できる急な階段が下に通じています。
台地のへりにある階段

汐見児童遊園という狭いスペースに「舞」という彫刻がありました。カップルがいたので写真は撮りませんでした。説明看板です。一色邦彦氏の作品だそうです。
彫刻舞

ねこが日向ぼっこをしていました。
ねこ

左手の土手下には汐見小学校があります。この辺りからも江戸湾の入り江が見えたものと思われます。
藪下通り

道路の下には汐見小学校の校庭があります。かなりの高さですので、物が投げ込まれるとかなり危険です。本郷台地の起伏がわかる場所でもあります。
汐見小学校



夏目漱石居住跡を目指します。
黒猫




千駄木ふれあいの杜
夏目漱石居住跡の方角と思われる道に右折してみました。奥に森が見えます。
千駄木ふれあいの杜

森に近づいてみると「屋敷森通信」なるものが掲示されています。本郷台地はその昔、常緑広葉樹が生い茂る森だったそうです。
千駄木ふれあいの杜

この森の名前が「千駄木ふれあいの杜」だと知りました。
千駄木ふれあいの杜

ふと、森の横を見上げると、雰囲気のいい階段があります。上ってみたくなりますが、我慢して先に進みました。
千駄木ふれあいの杜横の階段



元の道に戻り、少しすすむと右手に長い階段が見えてきました。ここが日本医科大学の裏手につながるようです。突き当たりを右に進めば、夏目漱石居住跡です。
日本医科大裏手の階段


突き当たった丁字路を右折します。
「橘桜の夏みかんの木」という札がぶら下がった夏みかんの木があります。こんな都会に夏みかんの木があるというのも面白いものです。
橘桜の夏みかんの木



夏目漱石住居跡
「夏目漱石旧居跡」の碑が近代的建物の前に建てられています。後ろの塀の上には猫の像があります。この地で『吾輩は猫である』を執筆したことから、猫の家と呼ばれたそうです。
漱石が創作を始めた地です。
夏目漱石旧居跡

「題字 川端康成」の文字が刻まれています。
夏目漱石旧居跡碑 

塀の上を猫の像が歩いています。
塀の上の猫像


夏目漱石旧居跡
"夏目漱石 本名・金之助。慶応3年~大正5年(1867~1916)。小説家。この地に、漱石がイギリス留学から帰国後の、明治36年3月から39年12月、現在の西片1丁目に移るまで、3年10か月住んだ家があった。(家主は東大同期の斉藤阿具氏)
当時、東京帝大英文科、第一高等学校講師として教職にあった漱石は、この地で初めて創作の筆をとった。その作品『吾輩は猫である』の舞台として、"猫の家"と呼ばれ親しまれた。
この地で、『倫敦塔』『坊ちゃん』『草枕』などの名作を次々に発表し、一躍文壇に名を表した。漱石文学発祥の地である。
漱石が住む13年程前の明治23年10月から1年余り森鴎外が住み、文学活動に励んだ。鴎外はここから団子坂上の観潮桜へ移っていった。
二大文豪の居住の地、漱石文学発祥の地として、近代文学史上の重要な史跡である。旧居は愛知県犬山市の「明治村」に移築保存してある。  文京区教育委員会"

夏目漱石の旧居跡として有名ですが森鴎外も住んでいた時期があるとのことです。



日本医大前交差点方面に向かい、左に折れ、少し進んだ先を右に曲ります。
日本医大前


東大北側の塀にぶつかり左に曲がります。
東大裏



新坂(権現坂・S坂)
S字カーブを描く坂道です。森鴎外の小説にも登場する坂です。
新坂(権現坂・S坂)


新坂(権現坂・S坂)
"本郷通りから、根津谷への便を考えてつくられた新しい坂のため、新坂と呼んだ。また、根津権現(根津神社の旧称)の表門に下る坂なので権現坂ともいわれる。
森鴎外の小説『青年』(明治43年作)に、「純一は権現前の坂の方に向いて歩きだした。・・・右の高等学校(注・旧制第一高等学校)の外囲、左は出来たばかりの会堂(注・教会堂は今もある)で、・・・坂の上に出た。地図では知れないが、割合に幅の広い此坂はSの字をぞんざいに書いたように屈曲してついている。・・・」とある。
旧制第一高等学校の生徒たちが、この小説『青年』を読み、好んでこの坂をS坂と呼んだ。したがってS坂の名は近くの観潮桜に住んだ森鴎外の命名である。
根津神社現社殿の造営は宝永3年(1706)である。五代将軍徳川綱吉が、綱豊(六代将軍家宣)を世継としたとき、その産土神として、団子坂北の元根津から。遷座したものである。 文京区教育委員会"


新坂を下れば、根津神社の表門です。



根津神社
1900年余り前に日本武尊(やまとたけるのみこと)が千駄木に創祀したと伝えられる神社です。室町時代には太田道灌により社殿が創建されています。
現在の社殿は宝永3年(1706)創建だそうです。宝永2年(1705)に5代将軍綱吉が世継(家宣)のために献納した屋敷地にて天下普請したものです。この時に千駄木から移されました。権現造の社殿ほか7棟の伽藍が国の重要文化財に指定されています。
「根津権現」という名称は明治の神仏分離の際に「権現」の称が一時期禁止されたために廃れました。ただ、地元では「権現様」と呼ばれてきたようです。
根津神社


根津神社で有名な「乙女稲荷神社」の鳥居です。ドラマや映画などの撮影にも使われてきました。
乙女稲荷神社

この辺りは旧町名で「根津須賀町」でした。根津の名の由来には、ねずみのいわれ、台地の根にあって舟の泊まるところなどの各説があるそうです。
旧根津須賀町



根津神社の前の通りには表具店があります。こちらも古い町屋です。
町屋表具店




根津のたいやき
不忍通りにぶつかり左に折れ、今回の目的の一つでもある「根津のたいやき」に向かいます。
しかし!!!「本日完売いたしました」の文字が!!
かみくらのどら焼き、谷中銀座商店街の惣菜、間間間カフェ、乱歩に菊見せんべい総本店と我慢に我慢を重ねて歩き続けてきた結果、根津のたいやきが閉店という悲しいことになってしまいました。
根津のたいやき

気持ちを立て直して先に進みます。
根津神社入口交差点を谷中方面に向かいます。


途中、左の路地に入ると古い住居を利用した店舗や長屋が残っています。
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三浦坂
細い道の三浦坂です。三浦志摩守下屋敷前の坂だったことが名前の由来です。
三浦坂


三浦坂
"『御府内備考』は三浦坂について、「三浦志摩守下屋敷の前根津の方へ下る坂なり、一名中坂と称す」と記している。三浦家下屋敷前の坂道だったので、三浦坂と呼ばれたのである。安政3年(1856)尾張屋版の切絵図に、「ミウラサカ」・「三浦志摩守」との書き入れがあるのに基づくと、三浦家下屋敷は坂を登る左側にあった。
(中略)
別名の中坂は、この坂が三埼坂と善光寺坂の中間に位置していたのにちなむという。 台東区教育員会"



ねんねこ家
三浦坂を上ると坂の中腹に「ねんねこ家」という猫グッズの専門店があります。多種多様な猫に関するグッズが売られています。
ねんねこ家



大名時計博物館
陶芸家の故上口愚朗氏が収集した大名時計を所蔵しています。江戸時代は勝山藩の下屋敷だったようです。各藩大名お抱えの時計職人が作った櫓時計や台時計、香盤時計、尺時計などが展示されています。
大名時計博物館



大名時計博物館から延寿寺方面に戻ります。
延寿寺




ヒマラヤ杉
三叉路にぶつかりますが、そこには巨大なヒマラヤ杉があります。角にある「みかどパン店」の店先から伸びています。
戦前、現店主の祖父が鉢植えの状態で育てはじめたものが、今の大きさまで育ったそうです。近所の方に愛される大木です。
ヒマラヤ杉

パン屋さんと一体化したかのように生えています。
ヒマラヤ杉

ヒマラヤ杉 みかどパン店

パン屋さんの前をまっすぐ進みます。


愛染寺
文豪川口松太郎の名作「愛染かつら」ゆかりの地だそうです。
愛染寺



SCAI THE BATHHOUSE(スカイ ザ バスハウス)
銭湯の建物を利用したギャラリーです。銭湯「柏湯」は200年の歴史ある銭湯だったようです。立派な瓦屋根と煙突が銭湯時代のままでした。
SCAI THE BATHHOUSE(スカイバスハウス)




愛玉子(オーギョーチイ)
台湾の新高山(玉山)に密生するイチジクに似た果実を寒天状に加工した愛玉子(オーギョーチイ)が名物で、店の名前にもなっています。台湾では屋台でデザートして売られているようです。
愛玉子(オーギョーチイ)

愛玉子(オーギョーチイ)


愛玉子の向かいの古い建物では岡埜栄泉が営業していました。
岡埜栄泉 



岡埜栄泉の豆大福を食べたいと思いながら進むと、言問通りにぶつかります。


カヤバ珈琲
カヤバ珈琲は、大正5年築の「出桁造」(だしげたづくり:江戸時代から続く商家の建築で柱の上に載せた太い桁を何本も突き出して軒や屋根を乗せた造り)の町家を活用しています。一度、平成18年に閉店しましたが、平成21年にたいとう歴史都市研究会とスカイザバスハウスが復活させたそです。
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台東区立下町風俗資料館付設展示場
明治43年(1910)建造の旧商家を移築して公開している展示場です。
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浄名院
言問通りを進むと「浄名院」が左手にあります。明治12年に入院した妙運和尚が8万4000体の地蔵像建立を発願し、完成した2万5000体余りが安置されているそうです。

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谷中霊園
谷中霊園を通り天王寺に向かいます。徳川慶喜や渋沢栄一、横山大観ら、多くの著名人の墓所があります。
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天王寺五重塔跡
谷中霊園の中に「天王寺五重塔跡」があります。昭和32年に焼失し、基礎の石だけが残っています。焼失した塔は幸田露伴の小説『五重塔』のモデルです。
天王寺五重塔跡

焼失前、昭和32年の延焼時、焼失後の写真が貼られていました。
焼失前、昭和32年の延焼時、焼失後の写真

焼失した五重塔は寛政3年(1791)建立でした。総欅(けやき)造りで高さ34.18メートルで、関東で最も高い塔だったそうです。
天王寺五重塔跡



天王寺
室町時代、応永の頃に創建されたと伝わる天王寺です。都内では有数の古刹です。江戸時代は「富くじ」で栄えたそうで、目黒不動や湯島天神と並んで江戸三富と称されたそうです。
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天王寺を過ぎれば、日暮里駅は目と鼻の先です。出発地点に戻り、今回のゴールです。

震災や戦災を免れたこと、大規模な開発が行われてなかったことから、谷根千には多くの古い建物が残っています。 また、その建物を活用していることも素晴らしい文化だと思います。

名所や史跡だけではなく、街並みや台地の地形を体感することが楽しい地域です。街歩き好きには魅力溢れる地域だと思います。もちろんマナーを守りながら歩くことが大切です。

末永く、魅力を失わない街であり続けてほしいと勝手な思いを抱きながら、歩き通しました。


散歩コース地図

より大きな地図で 谷中根津千駄木 を表示