玄侑宗久著「無常という力 「方丈記」に学ぶ心の在り方」(新潮社)を読みました。「方丈記」と言えば、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」で始まる鴨長明の随筆という認識だけでした。なんでもない様な書き出しですが、なぜか耳に残っています。この書き出しが「方丈記」の主題である『無常』を表していたのです。
無常という力 「方丈記」に学ぶ心の在り方


著者の玄侑氏は福島県三春町の臨済宗福聚寺の住職で作家としても有名です。以前、「現代語訳 般若心経」 を読んだことがありました。 三春町は福島第一原発から45kmの地点だそうです。震災から3ヶ月で、檀家さんの自殺者が6人にも及んだと明かしています。

玄侑氏は政府の東日本大震災復興構想会議の委員にも選ばれています。

フクシマに住んでいる著者は東日本大震災のあと、本を読むことが出来なかったそうです。親しい編集者の勧めで「方丈記」を手にします。「方丈記」を何度も読み返し、無常と鴨長明の生き方から大きな力を手に入れたことで、この本が生まれました。

この本は、玄侑氏の著、「方丈記」現代語版、「方丈記」原文で構成されています。「方丈記」を先に読んでから、玄侑氏の文を読んだ方が入りやすいと思います。

「方丈記」で一つ面白かったのが、当時も都会の人間は食料や物資を田舎に頼らないと生けていけなかったことです。無常と言いつつも、この部分は今も昔も変わらないのです。


無常とは仏教でいうところの『諸行無常』であり、「すべては移り変わっていく」という概念だそうです。日本は火山国であり、地震も多いことから、特に日本において無常という概念が強く根付いたとされています。


鴨長明が生きた800年前、平安時代末期には天災や人災が相次いでいました。長明は大きな天災や人災を経験したことから、無常の境地にいたります。特に人と家の"はかなさ"について、強く語っています。

長明の時代に都が壊滅するほどの大地震が起こります。大地震を経験した長明の言葉から、玄侑氏は以下のように説いています。

"大地震直後は、みんな殊勝に、無常ということを悟り、「世の中は頼りなく、儚いものだなあ」などと言って、少しは心の濁りが薄れたようであったが、歳月と共に元の木阿弥になってしまった。
心の濁りとは、執着を持つことです。この場合の執着とは、自分の勝手な都合で今の状態がずっと続くと思い込むことです。逆に言えば、無常、つまりすべては移ろっていくのだと知ることは、心の濁りが薄まることなのです。 "(P37)


無常の境地は自然の摂理でもあると感じました。生物学者の福岡伸一氏は著書「生物と無生物のあいだ(講談社) 」で、

" 肉体というものについて、私たちは自らの感覚として、外界と隔てられた個物としての実体があるように感じている。~私たち生命体が、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかない。しかも、それは高速で入れ替わっている。この流れ自体が「生きている」ということ"(P163)

と語っていました。人間は1年もすればすべての細胞が入れ替わっているのです。外見上、変わりがないように見えても、実はすべてが変わっているのです。
さらに地球規模でも移り変わっています。大まかには地球上の原子の数は一定であり、ある時は私に、ある時は魚や豚に、あるいは植物にと原子はダイナミックに移動しているのです。

無常というのは自然界では当たり前のことなのだと思えました。自分自身で勝手に「変わらない、変わるはずがない」と思っていることこそ、自分の心を狭めて苦しめているのです。でも、このことに気付くことは難しいことです。


この本で唱えていることに反発を覚える人も多くいると思います。難しい時期でもあり、玄侑氏はある程度の勇気をもって、無常により生きる力を得てほしいと訴えたのだと思います。

"何が起ころうと、悩むことはない。断定することはない。全てを受け容れ、揺らぎつづけるしかないんだ。いや、どんどん揺らげばいいんだ。それが自由になることであり、強くなることでもあり、未来を楽しむことだとわたしは考えます。"(P63)


揺らぎつづけていいという言葉で、多くの人が勇気を得て欲しいものです。


仕事のうえでも執着を持ちづづけることは怖いことであり、移り変わるということを前提に対応することは大切なことです。ある意味、仕事にもつながり、悩んだときには「無常」という言葉を思い出したいと思います。

「無常」を知ることで、思い悩むより、先に進むことに注力を注げるようになるのではないでしょうか。