七福神のご利益を祈願して、日本橋七福神を巡りました。七福神ですが、8つの神社を巡るのが日本橋七福神めぐりです。比較的距離が短く、短時間で巡ることができ、神社だけを巡るのが特徴とのことです。通常は1時間程度に巡れるようですが、色々と寄り道をしました。地図は最後に紹介します。
小網神社


日本橋七福神は恵比寿神と弁才天が重複しており、小網神社は福禄寿と弁才天の2神を祀っています。神社ばかりで構成されているため、寿老人を寿老神、大黒天を大国神と称しているそうです。

小網神社から巡ることが多いようですが、寶田恵比壽神社からスタートしました。

寶田恵比壽神社(たからだえびすじんじゃ) 恵比寿神(商売繁盛・交通安全)
椙森神社(すぎのもりじんじゃ) 恵比寿神
笠間稲荷神社(かさまいなりじんじゃ) 寿老神(長寿延命・導きの神)
末廣神社(すえひろじんじゃ) 毘沙門天(勝運除災・営業繁栄)
松島神社(まつしまじんじゃ) 大国神(五穀豊穣・開運招福)
水天宮(すいてんぐう) 弁財天(技芸上達・福徳自在)
茶の木神社(ちゃのきじんじゃ) 布袋尊(未来予知・金運の神)
小網神社(こあみじんじゃ) 弁財天、福禄寿(長寿幸福・包囲守護)


寶田恵比壽神社(たからだえびすじんじゃ) 恵比寿神(商売繁盛・交通安全)

もとは江戸城外宝田村の鎮守様です。徳川家康による江戸城拡張により、この地に移転しました。祭壇中央に祀られる恵比寿神像は、慶長11年(1606年)に三伝馬取締役の馬込勘解由が徳川家から譲り受けたもので、作者は鎌倉時代の名匠運慶の作と伝えられいます。
東京都中央区日本橋本町3-10
宝田神社

宝田神社


日本橋には古い看板建築の建物が多く残っています。
看板建築



椙森神社(すぎのもりじんじゃ) 恵比寿神
平安時代に平将門の乱を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願したところと伝えられています。室町中期には江戸城の太田道灌が雨乞い祈願をした神社でした。
江戸時代には焼失が相次ぎ、再建費用のために富くじが行われていました。

東京都中央区日本橋堀留町1-10-2
椙森神社

関東大震災で全焼し、社殿は昭和6年に耐震構造の鉄筋造りで再建されています。鉄筋コンクリートでは都内でも古い社殿のようです。
椙森神社

椙森神社

富くじの興業をしのんで大正8年に建てられた「富塚」です。日本で唯一のものだそうです。宝くじの元祖として多くの人が心中祈願をしているそうです。
富塚

珍しい親子の狛犬が祀られていました。
狛犬



近くの歩道には富くじの絵が描かれていました。この辺りは堀留という地名で、文字通り堀割がここの辺りで止まっていたことに由来します。
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堀留町の交差点を渡ります。
堀留町 

ハリオグラス本社ビル(旧川崎貯蓄銀行富沢町支店)です。1932年竣工、西欧古典主義様式による外観のビルです。
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ハリオグラス本社ビルの交差点を右折した通りが大門通りです。


この辺りには稲荷神社が多いようです。
富沢稲荷神社


大門通りを左に折れ、久松警察署方面に向かいます。

久松警察署の手前には小川橋の由来という石碑があり、浜町堀(浜町川)と呼ばれた水路の名残のようです。浜町緑道という公園が設けられています。
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川があったことが感じられます。
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久松警察署の向かいに笠間稲荷神社があります。



笠間稲荷神社(かさまいなりじんじゃ) 寿老神(長寿延命・導きの神)
日本3大稲荷のひとつである茨城県の常陸笠間神社の東京別社です。江戸末期に笠間藩主の牧野貞直が、この地に分霊を奉斎したことにはじまります。農業、工業、商業、水産業などのあらゆる殖産の守護神として信仰を集めました。
東京都中央区日本橋浜町2-11-6
笠間稲荷神社

笠間稲荷神社

笠間稲荷神社



清洲橋通りに出ると明治座が見えてきます。
清洲橋

明治座の前にも稲荷神社がありました。
明治座



浜町公園の入り口です。
浜町公園

浜町公園入口から続く銀杏並木を清洲橋通りに向かいます。秋には銀杏がきれいに紅葉すると思います。
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銀杏並木を抜けると何故か?片手をあげた小便小僧の像がありました。
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清洲通りを再び渡ると甘酒横丁となります。
甘酒横丁

途中、先ほどの浜町緑道から続く、浜町堀の跡地と交差しています。交差地点には歌舞伎十八番「勧進帳」の武蔵坊弁慶像があります。
武蔵坊弁慶像

お堀の名残りを残す浜町緑道。
浜町緑道


甘酒横丁を右に逸れ、末廣神社に向かいます。

末廣神社(すえひろじんじゃ) 毘沙門天(勝運除災・営業繁栄)
元和3年(1617)に江戸幕府の許可により、庄司甚右衛門らが葭(よし)の茂る地を開拓して遊郭「葭原(よしはら・吉原)」をこの地に造ったそうです。その氏神であったのが末廣神社です。明暦の大火で、葭原は浅草の吉原へ移転しますが、勝運除災の神様として特に勝負事にご利益があるとして崇められたそうです。
東京都中央区日本橋人形町2-25-20
末廣神社

末廣神社

アジサイが綺麗に咲いていました。
末廣神社

末廣神社


末廣神社



この辺りは人形町という町名になります。江戸時代、人形師が多く住んでいて、人形を売る店も多かったことに由来します。

昔ながらの風情のある建物が多く残っています。下町風情の残る地域です。
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甘酒横丁に戻ります。甘酒横丁の由来が書かれた看板を見つけました。
甘酒横丁の由来

"明治の初め頃にこの横丁の入り口の南側に尾張屋という甘酒屋があったことから昔は『甘酒屋横丁』と呼ばれていた。
当時の横丁は今より南に位置しており、道幅もせまい小路であった。
明治の頃この界隈には水天宮様をはじめ久松町には明治座が櫓をあげており、近くには"末廣"、"喜扇屋"、"鈴本亭"の寄席が客を集めていた。
また穀物取引所の米屋町、日本橋の川岸一帯の魚河岸、兜町の証券取引所が隣接していることからもこの界隈が賑わっていた。
関東大震災後の区画整理で現在のような道幅になり、呼名も『甘酒横丁』と親しまれ人々に呼びつがれている。"

甘酒横丁

こちらは「ばち英楽器店」です。大正6年(1917)創業、三味線の製造販売店です。
ばち英

岩井つづら店です。若い職人さんが手作業でつづらを作っていました。
岩井つづら店

高級鯛焼「柳屋」です。行列が出来ていました。
鯛焼 柳屋

表通りの裏側には路地があります。まっすぐな路地です。
甘酒横丁裏の路地 




松島神社(まつしまじんじゃ) 大国神(五穀豊穣・開運招福)
鎌倉時代、この辺りが入り海であった頃、小島があり諸神を勧請し、夜毎掲げる燈火を目標に舟人が航海の安全を得たと伝えられています。正徳年間(1711~1715年)、付近を埋め立て武家屋敷を造営するために日本各地から職人が呼び寄せたそうです。職人が松島神社に故郷の神々の合祀を頼んだためにご祭神は14柱となったそうです。祀られている大国神は、密教の大黒天が元で大国主命と神仏習合した神道の神です。
東京都中央区日本橋人形町2-15-2

ビルの中に神社が入っています。近代的な神社です。
松島神社


松島神社

松島神社由来



水天宮(すいてんぐう) 弁財天(技芸上達・福徳自在)
文政元年(1818)港区赤羽に在った有馬藩邸に当時の藩主有馬頼徳公が領地(福岡県久留米市)の水天宮の御分霊を神主に命じて藩邸内に御分社を祀らせたのが創めです。当時は藩邸内にあったため、毎月5日の縁日に限り庶民の参拝が許されました。参拝した妊婦が鈴乃諸のおさがりを頂いて腹帯として安産を祈願したところ、非常に安産だったことから、安産の御利益が広まりました。
明治5年に現在の地に移されました。現在の社殿は昭和42年築造です。
東京都中央区日本橋蛎殻町2-4-1

安産、子授にご利益があるとして有名な水天宮です。毎月戌の日は大変な賑わいです。
水天宮

水天宮

水天宮


水天宮

雨が降り、戌の日でもなかったのですが、祈祷待ちの家族が多かったです。

子宝いぬ 




茶の木神社(ちゃのきじんじゃ) 布袋尊(未来予知・金運の神)
徳川時代約3千坪に及ぶ下総佐倉の城主大老堀田家の中屋敷であって、この神社はその守護神として祀られていたものです。社の周囲に巡らされた土堤芝の上に丸く刈り込まれた茶の木がぐるりと植え込まれ、芝と茶の木の緑が見事であったと伝えられています。中屋敷は勿論のこと周囲の町方にも永年火災が起こらなかったため、火伏せの神と崇められました。
布袋尊は昭和60年に合祀されています。
東京都中央区日本橋人形町1-12-10
茶の木神社

茶の木神社

茶の木神社


茶の木神社の近くには「水天宮駄菓子バー」という気になるお店があります。
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こちらも神社のほど近い人気のサンドウィッチ店「サンドウィッチパーラーまつむら」です。
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少し道を逸れてみると、看板建築の建物を見ることができました。上の写真は豆腐屋さんです。
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先ほどの道に戻ると、また看板建築を見ることができました。
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さらに進むと創業宝暦10年(1760) という「割烹玉ひで」があり、行列が出来ていました。しゃも鍋が有名なようです。
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玉ひで前を左に進むと鯨の石像があります。
江戸時代、人形町には人形師が多く住み、人形を扱う店が多く立ち並んでいました。人形浄瑠璃から伝承された文楽人形の命とも言える精妙な首の動きは、弾力に富んだ鯨のヒゲでなければ出せないそうです。そのような云われから、鯨のオブジェが置かれているようです。
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小網神社(こあみじんじゃ) 弁財天、福禄寿(長寿幸福・包囲守護)
小網神社
"社伝によれば、当社は小網山万福寺を別当寺として、室町時代中期、当地に祀られた稲荷社に起源するという。稲荷社は、明治時代初めの神仏分離令により、小網神社と称し、東堀留川の河岸地の一画であった現在地を社地と定めた。そして現在、小網町及び人形町の一部の氏神として、また東京下町に広く信仰を集めている。
境内には、昭和4年(1929)の造営による社殿及び神楽殿が残っている。社殿は伝統的な神社建築の形式を備え、向拝には優れた技法による昇り龍・降り龍・獅子・ばく・鳳凰等の彫刻がほどこされている。また道路際に建つ神楽殿は、五角形という特殊な平面態を持つ。この社殿及び神楽殿は、中央区に現存する数少ない木造の神社建築として、棟札等の造営に関係する資料とともに中央区民文化財に登録されている。"
東京都中央区日本橋小網町16-23

小網神社

小網神社

以前、紹介したことがある神社です。
強運厄除・東京銭洗い弁天「小網神社」(日本橋小網町)で厄除け祈願 より)
"旧社殿は大正12年の関東大震災で倒壊します。関東大震災の際、当時の宮司が稲荷大神や弁財天等を抱えて、近くに架かる新大橋に避難したそうです。そこへ多くの人々も避難してきました。橋は落ちずに混乱もなく、大勢が助かったそうです。この事は新大橋の避難記念碑にも記されているそうです。

また、第二次世界大戦では、氏子の出征兵士のために開いた出征奉告祭に参列して、小網神社のお守りを授かった兵士が全員生還したそうです。更には、東京大空襲において境内にある建物は奇跡的に焼失を免れています。

この様なことから、「強運厄除の神様」として信仰を集めるようになったそうです。確かにこの由緒を聞くと、タダならぬパワーと強力な御利益がありそうです。"


小網神社

小網神社

神楽殿です。
小網神社

銭洗い井にはカゴがありますので、金銭を入れて清めることが出来ます。金銭を清めて財布に入れておくことで財運を授かるそうです。「東京銭洗い弁天」と呼ばれています。
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七福神めぐりは小網神社でゴールです。木造の歴史ある社殿やビルの中にある社殿、鉄筋コンクリートとしては都内でも古い社殿など、多種多様な建物を見ることができます。かなりの歴史がある神社や強力な御利益がある神社も多く、楽しんで神社を巡ることができました。



ここまで来たので、日本橋や三越本店を見て散歩のゴールとしました。


江戸橋を渡り、日本橋に向かいます。
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野村証券のビルの横を通ります。
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日本橋に着きました。
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橋の中央部には「日本国道路元標」が埋め込まれています。
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日本橋の復旧工事来歴という銅版を見つけました。橋のたもとの川側にあります。
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大戦時の焼夷弾の痕が残っていると聞いたことがあったので探してみました。この黒い痕でしょうか。
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きれいなアーチの石橋です。
日本橋

日本橋は前回訪れた時に記事(実は美しい二連アーチの石橋「日本橋」を叩かず渡る)を書きましたが、本当に美しい橋です。



日本橋を渡り、三越本店に向かいます。詳しくは(江戸起源の「三越本店」と「三井本館」)をご覧ください。
三越本店 

5階まで吹き抜けのホールは見応えがあります。
三越本店


日本橋には近代的ビルと古い建物が混在しており、下町風情を味わえる場所も残っています。散歩で発見するものも多く、楽しい場所だと思います。


日本橋七福神めぐりの地図です。


より大きな地図で 日本橋七福神 を表示