東京十社のひとつ、品川神社(東京都品川区北品川)は東海七福神の1社として大黒天を祀っています。品川神社には富士登山を模した富士塚があり、旧東海道周辺が一望できます。
富士塚からの眺め


品川は南北に天王さまがあり、北の鎮守「北の天王」が品川神社、南の鎮守「南の天王」が荏原神社です。毎年6月に南北天王さま合同で例大祭「品川天王祭」が行われています。天王祭では、江戸囃子源流の太々神楽が披露されるそうです。


第一京浜の向い側から見ると、右側に品川神社の鳥居があり、鳥居の横に大黒天の石像が見えます。左上部に見える小高い山が富士塚です。
品川神社と富士塚


品川神社の由来は平安時代末期にまでさかのぼるようです。歴史のある神社です。
品川神社御由緒

"品川神社御由緒
今からおよそ800年程前の平安時代末期の文治3年(1187)に、源頼朝公が阿房国の洲崎明神(現・千葉県館山市鎮座 洲崎神社)の天比理乃咩命を当地にお迎えして海上交通安全と祈願成就を祈られたのを創始とします。

やがて、鎌倉時代末期の元応元年(1319)に二階堂道蘊公が、「宇賀之売命(お稲荷様)」を、さらに室町時代中期の文明10年(1478)に、太田道灌公が、「素盞嗚尊(天王様)」をそれぞれお祀りしました。

慶長5年(1600)、徳川家康公が関ヶ原の戦いへ出陣の際に当社へ参拝し戦勝を祈願され、その後、祈願成就の御礼として仮面(天下一嘗の面)・神輿(葵神輿)などを奉納されました。

また、寛永14年(1637)三代将軍徳川家光公により東海寺が建立され当社がその鎮座と定められ、「御修覆所(神社の建物の再建・修復などは全て幕府が賄う)」となり、元禄7年(1694)・嘉永3年(1850)の二度の社殿の焼失の際には時の将軍の命により再建が行われる等、徳川将軍家の庇護を受けました。

時代は明治に移り、同元年(1868)11月には明治天皇様が、新都・東京の安寧と国家の繁栄を御祈願されるために、当社を含んだ都内の神社を「准勅祭神社」と定められ、御勅使が御参拝になられ御祈願をされました。

大東亜戦争の折は、当社は幸いにして戦火を免れましたが、社殿の老朽化が進み、昭和39年(1964)氏子各位の御協力により現在の社殿が再建されました。"



品川神社の鳥居です。奥には長くて急な階段が見えます。中段の踊り場から左に入ると富士塚があります。
鳥居


鳥居には龍が巻き付いています。珍しい意匠だと思います。
鳥居の龍


富士塚を真下から見ると、結構高さがあります。
富士塚

富士塚は富士山登山を模した山です。山岳信仰で富士山へお参りが出来ない場合に富士塚に登り、富士登山に代えたものです。富士講と呼ばれています。

(品川神社富士塚)
品川神社の富士塚は、明治2年(1869)に北品川の丸嘉講(まるかこう)によって造られました。大正11年(1922)には第一京浜建設のために移動して再建されています。高さは約15mだそうです。


富士塚の入り口です。
富士塚入り口


二合目。修験道の行者、角行 (富士講)の石像でしょうか。
二合目


八合目に入る階段は急になります。
八合目


頂上は、きれいに整備されていました。
頂上


頂上から天王洲アイル方面の眺めです。かなり見晴らしがよく、旧東海道方面を一望できました。
頂上からの眺め

下を覗くと、結構高いです。
頂上からの眺め


富士塚を降りて、品川神社の階段を上ると、左手に浅間神社があります。通常、富士塚の頂上には浅間神社が祀られるようです。
浅間神社


奥に見えるのが品川神社です。
品川神社


「品川天王祭」で神楽が披露される神楽殿です。
神楽殿


品川神社拝殿です。
品川神社拝殿


拝殿の横には阿那稲荷神社の社へと続く赤鳥居があります。
阿那稲荷神社の社へと続く赤鳥居


品川神社自体が小高い場所にあり、その横には溶岩ボク石で富士塚が築かれています。品川神社への参拝と富士塚登山で御利益が多く得られるように思えました。