東京駅夜景
2014年12月20日に開業100周年を迎えた東京駅、意外に知られていないトリビアを探してみました。



開業当時からの支柱
5、6番線(山手線外回り、京浜東北線大船方面)ホームの有楽町側に開業当時からの支柱が14本残っています。東京駅 開業当時からの支柱
東京駅 開業当時からの支柱
東京駅 開業当時からの支柱
東京駅 開業当時からの支柱

工事が着工した明治41年(1908)の文字が見えます。完成が大正3年(1914)ですから、その6年前に作られた支柱ということになります。


老朽化のために2本を残して、2015年春まで撤去されるそうです。

東京駅 開業当時からの支柱今でも架線を支えています。



ゼロキロポスト
鉄道には路線ごとに起点からの距離を示す距離標があります。距離標はキロポストと呼ばれ、ゼロキロポスト(0km point)はその起点ということになります。東京駅には、中央本線、東海道本線、東北本線、新幹線など、多くのゼロキロポストが設置されいます。その形状も様々です。

詳しくは(東京駅のゼロキロポスト(0km point)=新幹線、中央・東海道・東北本線などなど=

東京駅 ゼロキロポスト(0km point)
東京駅 ゼロキロポスト(0km point)
東京駅 ゼロキロポスト(0km point)
東京駅 ゼロキロポスト(0km point)

山手線 東京駅開業100周年記念ラッピング車両
車体を赤レンガ色にラッピングした記念車両が2015年3月31日まで運行されています。
山手線 東京駅開業100周年記念ラッピング車両
山手線 東京駅開業100周年記念ラッピング車両


風景印(ご当地の消印)用の郵便ポスト
風景印とは、ご当地の名所などが図柄となった消印のことです。風景印がある郵便局でお願いすると、押してもらえます。
このポストは、駅構内の丸の内中央口近くにあります。ポストの上は東京駅を模したデザインで、左の方に投函すると東京中央郵便局の風景印が押してもらえます。
東京駅 風景印(ご当地の消印)用の郵便ポスト
東京駅 風景印(ご当地の消印)用の郵便ポスト

東京中央郵便局の風景印「東京駅とJPタワー」現在の東京中央郵便局の風景印「東京駅とJPタワー」がこちらです。


東京駅と東京中央郵便局は地下通路でつながっているそうです。大正3年から昭和53年まで郵便物の運搬通路として使われていました。郵便物を載せた台車を電気機関車が引いてたようです。現在でも、出入り業者の運搬通路や身障者用通路などとして使用されています。




横須賀線、総武線ホームの床タイル
ホームの床で一部色が違うタイルが並んでいます。高度経済成長期に多量の地下水をくみ上げたことで、地盤沈下が大きな問題となっていました。1972年に東京都は地下水の汲み上げ規制を行いました。
このことで別の問題が起こります。地下水位が一気に上がったのです。地下水位上昇の影響で地下に造られた構造物は水に浸った状態となり、ホームが浮き上がる可能性が出てきました。その為にアンカーを打った工事跡が残っているのです。
横須賀線、総武線ホームの床タイル
横須賀線、総武線ホームの床タイル

横須賀線、総武線ホーム 放水用青い導水管東京駅構内の水を放水するため、青い導水管で大田区の立会川に放水しています。その距離は10㎞以上になります。



100年前の赤煉瓦(構造レンガ)の壁
丸の内南口の改札近くには、100年前の赤煉瓦(構造レンガ)を見ることができます。
東京駅 100年前の赤煉瓦(構造レンガ)の壁


原敬首相遭難現場
丸の内南口改札の外、ドーム内の切符売り場近くの床にマークが埋め込まれています。大正10年(1921)年11月4日の原敬首相暗殺現場です。岩手県出身の原敬ですが、暗殺の現場が東京駅だったことは最近まで知りませんでした。
東京駅 原敬首相遭難現場
東京駅 原敬首相遭難現場
近くの壁には事件の経緯が書かれた説明板があります。

"大正10年11月4日午後7時20分、内閣総理大臣原敬は、京都で開かれる政友会京都支部大会におもむくため、丸の内南口の改札口に向っていた。そのとき、一人の青年が飛び出してきて案内にあたっていた高橋善一駅長(初代)の肩をかすめ、いきなり刃わたり5寸の短刀で原首相の右胸部を刺した。原首相はその場に倒れ、駅長室で手当を受けたが、すでに絶命していた。犯人は、原首相の率いる政友会内閣の強引な施策に不満を抱いて凶行におよんだと供述し、背後関係は不明であった。"(説明板)



浜口首相遭難現場
構内の中央通路から新幹線乗り場に上る階段の手前、白い床に事件現場を表すマークが埋め込まれています。昭和5年(1930)年11月14日におきた浜口雄幸首相狙撃事件現場です。

東京駅 浜口首相遭難現場
東京駅 浜口首相遭難現場

東京駅 浜口首相遭難現場
近くの柱にある説明板です。

"昭和5年11月14日午前8時58分、内閣総理大臣浜口雄幸は、岡山県下の陸軍特別大演習参観のため、午前9時発の特急「つばめ」号の1等車に向ってプラットホ-ムを歩いていた。このとき、一発の銃声がおこり浜口首相は腹部をおさえてうずくまった。かけつけた医師の手によって応急手当が加えられ、東京帝国大学医学部附属病院で手術を受け、一時は快方に向ったが翌昭和6年8月26日死去した。犯人は、立憲民主党の浜口内閣が、ロンドン条約批准問題などで軍部の圧力に抵抗したことに不満を抱き、凶行におよんだものとされている。"(説明板)



丸の内南口・北口ドーム
干支、クレマチス(花言葉「旅人の喜び」)の花飾り、鷹型のレリーフの装飾があります。丸の内南口・北口ドーム

クレマチスの花飾りレリーフは天井の中心飾りの周囲に16個配置されています。鷲型のレリーフは天井の8ヶ所の角にあり、両翼間が約 2.1mにもなります。gon12DSC08431


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干支のレリーフは、それぞれの干支が示す方位に従って、丑(北北東)・寅(東北東)・辰(東南東)・巳(南南東)・未(南南西)・申(西南西)・戌(西北西)・亥(北北西)の8つがあります。子(北)・卯(東)・午(南)・酉(西)の4つはありません。


干支のレリーフですが、十二支のうち、8つの動物だけです。残り4つの干支が、東京駅を設計した辰野金吾の故郷佐賀県唐津市に近い武雄市の武雄温泉楼門でみつかりました。 唐津の物産展が開催されており、干支に関わる新聞が展示されていました。
辰野金吾 東京駅 干支
辰野金吾 東京駅 干支


キーストーン 「豊臣秀吉の兜」
8つあるアーチのキーストーンは「豊臣秀吉の兜」をモチーフにしています。





ドーム屋根
屋根の資材には、宮城県石巻市の建設資材「天然スレート」が使われています。震災で被災しましたが、綺麗に洗浄されて屋根に使用されました。 特に南北ドーム及び駅舎中央部に設置されたスレードがそれです。
東京中央郵便局(キッテガーデンの展望テラス)東京中央郵便局(キッテガーデンの展望テラス)の眺めです。


中央線ホームから 中央線のホームからみたドームの屋根です。




東京ステーションホテル入口
東京駅開業の翌年(1915)に開業しました。江戸川乱歩の「怪人二十面相」の舞台にもなっています。内田百閒、川端康成、松本清張らの文人にも愛され、執筆の場にもなっています。松本清張の「点と線」は、東京駅でヒントを得て生まれたと聞いたことがあります。
東京ステーションホテル入口
東京ステーションホテル入口


駅長室入口
東京駅の駅長はJR東日本の役員(取締役)です。取締役になっている駅長ではただ一人だとか。 駅長室の延長線上にゼロキロポストがあります。
東京駅 駅長室入口
東京駅 駅長室入り口


「東京駅」石碑
この石は八重洲の外堀に掛けられていた八重洲橋を支えていたものだそうです。
「東京駅」石碑


皇室専用貴賓出入口
丸の内駅舎の中央部にあります。「東京駅」石碑の後ろに白い鉄の門扉があります。皇居前の和田倉門から続く行幸通り(ぎょうこうどおり、東京都道404号皇居前東京停車場線)の正面にあたります。

東京駅 皇室専用貴賓出入口
東京駅 皇室専用貴賓出入口


赤レンガ 化粧レンガ
手間と職人の技、覆輪目地で施工された化粧煉瓦です。
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丸の内中央口の天井
南口、北口のドームが注目されていますが、中央口の天井はこの様になっています。
東京駅 丸の内中央口の天井




東京ステーションギャラリー(美術館)
丸の内北口のドーム内に入り口があります。2015年3月1日(日)、東京駅開業百年記念「東京駅100年の記憶」が開催されています。
東京ステーションギャラリー(美術館)

ロビー付近や階段で開業当時からの構造煉瓦を見ることが出来ます。
東京駅 構造煉瓦
建物の内部に使用されている頑丈なレンガ、構造レンガです。

東京駅 構造煉瓦
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腰壁などを固定するため、ネジやクギを受ける部分に使用された木製レンガ。1945年の空襲で炭化したまま残っています。

東京駅駅前2階窓より駅前の様子を2階の窓から望めます。


東京駅 丸の内北口 2階より
東京駅 丸の内北口ドーム内の様子を2階から眺めることが出来ます。



北町奉行所跡(都旧跡)
八重洲北口、大丸の横にある通用口の足元に石碑があります。これはなかなか気づきません。
北町奉行所跡(都旧跡)
北町奉行所跡(都旧跡)

"都旧跡 北町奉行所跡
所在 東京都千代田区丸の内一丁目一番地国鉄所有地内
指定 大正七年四月
江戸町奉行は徳川幕府の職制の一つで、寺社奉行、勘定奉行とともに三奉行と呼ばれていた。江戸町奉行は老中の支配に属し、配下の本所奉行、道役、小伝馬町牢屋、寄場奉行、町年寄を統轄した。その職掌は江戸府内の行政司法警察の一切にわたっていた。定員は二名で南北両奉行に分かれ、月番で交替に執務したが時に応じて増減された。原則として旗本が任命され、役料は三千石、芙蓉間詰で勘定奉行の上座、輩下に与力同心などがいた。
「いれずみ奉行」として名高い遠山左衛門尉景元(遠山金四郎)は天保十一年(1840)三月から三年の間、北町奉行の職にあった。
昭和四十三年十月一日
東京都教育委員会"




ヤン・ヨーステン記念像(銅像)
八重洲地下街「センタースポット」から近い「外堀地下一番通り東壁面」にあります。

東京駅 ヤン・ヨーステン記念像(銅像)

"ヤン・ヨーステン記念像

ヤン・ヨーステンは和蘭人で西暦一六〇〇年豊後の海で難破した和蘭船に乗っていた。そのまま日本に住みつき徳川家康の信任を得、外交や貿易について進言をする役目についた。その江戸屋敷は和田倉門外の堀端にあったので、後に彼の名にちなんで八代洲河岸と称せられ、更に八重洲になった。ここに彼を偲んで記念像を置く。"

東京駅 ヤン・ヨーステン紹介パネルヤン・ヨーステン記念像の横にある紹介パネルです。リーフデ号の航路、江戸時代と現在の東京駅周辺の地図、リーフデ号模型写真などが紹介されています。

"八重洲の由来となったオランダ人 ヤン・ヨーステン ?~1623
ヤン・ヨーステン(オランダ人・日本名、耶楊子・やようす)は、ウイリアム・アダムス(日本名、三浦按針)等とともに慶長5年(1600)に豊後(現・大分県)に漂着したオランダ船リーフデ号の船員だった。
ヤン・ヨーステンは徳川家康の通訳として重宝され、江戸城下の今の日比谷あたりに屋敷を与えられたので、このあたりの地名を八代洲(やよす)河岸といった。
「八代洲」は、のちに「八重洲」と書かれ、初めて町名になったのは明治5年(1872)のこと(現・丸の内一丁目付近)。その後東京駅が開業すると、八重洲町の大半は東京駅となるが、昭和29年(1954)には東京駅東側一帯が「中央区八重洲」となって今日に至っている。
日本人と結婚したヤン・ヨーステンは、幕府より朱印状を得て、東南アジアを中心に幅広く貿易を営んだ。
また、慶長14年(1609)、長崎・平戸にオランダ商館が開設されると、日本とオランダとの貿易の発展に尽力した。
のちに、帰国を思い立ったヤン・ヨーステンはバタビア(現・ジャカルタ)に渡り、帰国交渉をしたが不調に終わり、日本への帰帆途中、船が難破して亡くなった。"



東京駅のライトアップ(夜景)
丸の内駅舎のライトアップは、時間帯によって変化します。日没時に点灯したあと、21時の消灯まで徐々に明るさが減らされていきます。
東京駅のライトアップ(夜景) 東京駅のライトアップ(夜景)

東京中央郵便局(キッテガーデンの展望テラス)からは丸の内駅舎とホームを眺めることが出来ます。
東京中央郵便局(キッテガーデンの展望テラス)
東京中央郵便局(キッテガーデンの展望テラス)


行幸通りからは、丸の内駅舎の全体を眺めることが出来ます。
行幸通りから

新丸ビルのテラスからの眺めも素晴らしいものです。以前の記事(iPhone5の夜景写真「東京駅 丸の内駅舎」)で紹介しています。


番外 まめや金澤萬久「東京駅が描かれた豆箱」
九谷の里の奥様方が描いているという豆箱。東京駅の丸の内駅舎が描かれたものが売られていました。
まめや金澤萬久「東京駅が描かれた豆箱」


番外 ホテルメトロポリタン丸の内 Nゲージジオラマ

27階のロビーにNゲージのジオラマがあります。東京駅や東京タワー、東京スカイツリーなどの名所を新幹線などNゲージ車両が走り抜けます。
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(その他)
新幹線記念碑
新幹線中央乗換コンコース19番線側の正面の柱に記念碑があるようです。

鉄道建設記念碑
新幹線ホーム19番線の下り寄りに、レンガ造りの壁に記念碑があるようです。

丸の内鉄道橋記念塔
丸の内北口の北側、中央線高架下には「丸の内鉄道橋記念塔」があります。

動輪の広場
丸の内地下北口の広場に動輪の広場があります。丸の内地下南口に移設されています。

幸福の仔豚像
鼻をなでると幸福になるそうで、鼻がピカピカになっているとか。



東京駅を利用した都度、トリビア探しをしてみるのも良いかもしれませんね。

東京駅を紹介した本で「東京駅100周年東京駅100見聞録」で詳しく紹介されていますので参考にどうぞ。