重要文化財の石鳥居です。案内板によると「伊達忠宗公の奉納によるもので、明神鳥居形式の美しい形態の鳥居である。鳥居の主な部材は花崗岩で、忠宗公夫人振姫の郷里備前国大島から運搬し建てられたものである」とあります。
備前国(岡山)大島とありますが、犬島との指摘があります。犬島は 古くから花崗岩の産地として知られていました。岡山城、大阪城、江戸城、鎌倉八幡宮の大鳥居などに犬島の花崗岩が使われました。
昭和53年の宮城県沖地震により傾斜したため、翌年に解体修復が行われています。向かって左の笠石が黒っぽい色に見えます。
鳥居の近くに由緒が書かれた案内板があります。
"東照宮 由緒
御祭神 徳川家康公
例祭 4月11日
仙台藩2代藩主伊達忠宗公は、徳川幕府への尊崇・感謝の標として、慶安2年(1649)5月28日、3代将軍徳川家光公に東照大権現の仙台勧請(かんじょう)を願い出て許しを受け、同年8月17日普請始(ふしんはじめ)(着工式)を行った。
この地は玉手崎(たまてざき)とよばれ、天正19年(1591)10月、徳川家康公が葛西大崎一揆の視察を終へて江戸へ戻る途中、藩祖伊達政宗公と宿陣された所で、祭神縁りの場所として社地に選ばれたという。尚、この地にあった天神社は東隣に移され、寛文7年榴岡に移された(現在の榴岡天満宮)。
社殿が完成したのは、着工以来5年後の承応3年(1654)である。同年3月16、17日に、造営落成御遷座(ごせんざ)の儀式が荘厳に行われた。造営に当った人足58万3675人、大工12万9967人、材木2万4730本、総工費小判2万2496両を要した。諸国に材を求め、一流の工匠が工事に携わる等、仙台藩総力をあげての大事業であり、伊達文化の粋を結集したものであった。
以後、伊達家の守護神として尊崇され、明暦元年(1655)より毎年9月17日を祭典日と定め、藩主在国の年には城下18ヶ町に命じ神輿渡御(みこしとぎょ)の先駆として山鉾を出さしめ、藩内最大の祭礼であった。この祭を仙台祭と称し、江戸時代末期まで盛大に行われた。
昭和10年8月6日早朝、失火により弊拝殿が焼失し、貴重な文化財が烏有(うゆう)に帰したが、昭和39年11月17日、氏子崇敬者の協力により原形に復興された。
本殿・唐門(からもん)・透塀(すきべい)・随身門(ずいしんもん)・石燈籠(とうろう)・石鳥居は国指定重要文化財に、手水舎(てみずや)は県指定有形文化財に、それぞれ指定されている。
昭和53年5月、唐門・透塀の大修理が竣工、昭和55年6月には本殿の修復工事が完了して、創建時の荘厳華麗な姿に復元された。
境内社 古峰神社
境内地 9700坪
鎮座地 仙台市東照宮1丁目6番地1号
東照宮社務所"
鳥居をくぐると両側に石灯篭があります。この石燈籠も重要文化財。奥に行くほど、階段の幅が狭くなっているように見えます。遠近法を活用した設計のようです。
伊達家家臣が奉献した、創建当時の石灯篭が多く残っていることが分かります。
"重要文化財 石燈籠
昭和55年1月26日附指定
創建時には伊達家一族家臣により38基の石燈籠が奉献されていたが寛文事件(伊達騒動)後、事件に関係した重臣の石燈籠は取り除かれ、現在はその後奉献されたものを合わせて37基が境内に立ち並ぶ。承応3年(1654)の刻銘があるもの31基、延宝8年(1680)の刻銘もの2基、天和2年(1682)のもの4基あり、文化財しての社殿とともに一体としてその価値を形成するものであれる。拝殿前の二基は花崗岩、その他は当地産の石に彫刻作成して奉納されたものである。"
階段を上り切って振り返ると、参道から続く道路がまっすぐ伸びているのが分かります。1.5km先までまっすぐな道です。
石燈籠の階段を登り切ると、荘厳な随身門が堂々と構えます。こちらも国指定重要文化財です。
"国指定重要文化財(昭和55年1月26日指定)
仙台東照宮 随身門(ずいしんもん)
随身門とは左右に帯刀し弓矢を持った随身像が安置されているところから出たもので寺院でいう仁王門にあたる。
構造は三間一戸(正面の柱間が三つあり、そのうち中央が通り間となり両開きの扉がつく)の楼門(二階門)形式の八脚門(脚柱が八本ある門)で、屋根は銅板葺きの入母屋造りである。軒下は比較的複雑で肘木の構造には天竺様を思わせる部分もあるが総じて和様である。二階勾欄には精巧な細工がほどこされ、均斉のとれた重厚さがある。
二階正面中央に、妙法院宮堯然親王筆の「東照宮」の扁額があるが、裏面銘文には承応元年(1652)作とあり門の建築年代は本殿等と同時期の承応年間である。
平成11年10月 仙台市教育委員会"
神楽殿です。東照宮神楽(春祭奉納)は仙台市の登録無形民俗文化財に指定されています。
手水舎は県指定有形文化財です。水盤の部材は花崗岩で、鳥居と同じ備前国(岡山)から運ばれたと伝えれています。
昭和10年の失火で焼失し、昭和39年に再建された拝殿です。屋根は入母屋造銅瓦葺。
本殿の唐門と透塀、本殿は重要文化財です。 華麗でありながら品のある造りです。
"重要文化財 唐門・透塀
昭和28年3月31日指定
唐門は一間一戸向唐門、銅瓦葺。正面円柱、背面角柱、花崗岩の礎盤の上に立つ。天井と垂木の間、蟇股、扉の綿板に金箔を押す。蟇股に牡丹の花、扉の綿板には紗綾形模様を彫り出し、鳳凰、麒麟、唐獅子の浮彫を付ける。鳳凰は動乱の世を鎮める明君の象徴で、牡丹は富貴善美を表わしている。彫刻部分に生彩色を施し、破風板、木口等要所に飾金具を取り付けた、形態均衡をえた流麗な門である。
透塀は1周延長四十四間(79.4メートル)、銅瓦葺。花崗岩の基壇上に土台を廻し、角柱を建て、腰長押、内法長押を付す。襷文、連子窓は黒漆喰。長押には飾金具を付ける。"
"重要文化財 本殿
昭和28年3月31日指定
本殿は御神体徳川家康公をお祀りする、社殿の中で最も重要な建物である。大きさは正面三間、側面二間、入母屋造銅瓦葺で棟に千木・堅魚木を載せる。亀腹基壇上に円柱を建て三方に切目録・擬宝珠付高欄を廻し、向拝は花崗岩の浜緑の上に立つ。
軒は二軒繁垂木、支輪付出組斗栱、中庸は白鷹に松の彫刻入蠆服を備え、頭貫には獅子の木鼻を付す。四周に内法長押、緑長押を廻し両側後端に脇障子を建てる。正面三間両側前端一間に折桟唐戸を吊り込み、百二十面の綿板には麻葉模様と円形に天女、竜、唐獅子を浮彫している。
建物は総欅造、木目を現してた透漆塗で内外共塗装を施し、緑、高欄、木階は朱漆塗、外部板壁と床は黒漆塗として彫刻には金箔押や生彩色を施す。各所に精巧な鍍金金具を付け、金梨地の金蒔絵、桟唐戸の金具の七宝装飾等、伊達文化の粋を結集した極めて壮麗な建物である。"
白梅と紅梅が咲き始めていました。白梅にはウグイスの姿が見えました。
仙台東照宮の御朱印です。
祭神徳川家康公が葛西大崎一揆巡視の際、この地で休息をとったという伝承からこの地が選ばれたそうです。地図を見れは、仙台城の北東になることから、鬼門封じの意味があるように思われます。裏鬼門に線を引くと日光東照宮にぶつかるのも意味があるのでしょうか。
日光東照宮は権現造りですが、仙台東照宮は本殿と拝殿を別棟に配する様式をとっています。伊達政宗の墓所である瑞鳳殿と比較しても派手さがなく、贅を尽くしながらも粋な造りとなっているように思えました。
仙台を守り続けてきた荘厳さと品のある粋な雰囲気が印象的な神社でした。
和菓子屋さんの「竹林堂」です。明治後期の京びななどが飾られています。嬉しいことにお菓子の試食もありました。こちらは和菓子屋で、遠野名物の「明けがらす」をはじめとした和菓子が売られていますが、ケーキなどの洋菓子もおすすめです。帰りにケーキを買って帰りましたが、見た目も甘さも上品で美味しいケーキでした。
千葉家具店
お休処やおちゅう
何の店舗かわかりませんでしたが「とりあえず」というお店です。江戸中期のお雛様だそうです。
まつだ松林堂
新里陶器店
遠野市立博物館
江戸から昭和の遠野のひな人形と五月人形、雛道具が展示されています。入館料300円。
寛永4年(1627)に八戸南部氏が遠野に移り、遠野南部氏(1万2千石)の城下町として発展して来ました。
内陸部と沿岸部を結ぶ交通の要衝であり交易の拠点だった場所です。伊達藩境にも近く、他藩からの人々も多く入っていたと想像できます。江戸時代、多くの人や物資が集まり、商家が軒を連ねて賑わっていた土地でした。江戸時代の多くのお雛様が残ることからも、遠野の賑わいを想像できます。
遠野の人たちは気さくで物腰が柔らかく、気持ちよく散策が出来ました。昔から交流人口が多かったことが、遠野の人たちの気質を生み出したのでしょうか。遠野のまちは何度足を運んでも、また来たくなるところです。
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"國寶 大崎八幡宮 御由緒
平安の昔、東夷征伐に際して坂上田村麻呂は、武運長久を祈念すべく守護神である宇佐八幡宮を現在の岩手県奥州市(水沢)に勧請、鎮守府八幡宮を創祀しました。
その後室町時代に奥州探題大崎氏はこれを自領、現大崎市田尻に遷祀し守護神として篤く崇敬した為、世に大崎八幡宮と呼ばれました。
大崎氏の後は、仙台藩祖伊達政宗公が居城の玉造郡岩出山城内の小祠に御神体を遷し、仙台開府後仙台城の乾(北西)の方向にあたる現在の地を神域と定め、政宗公の命により慶長9年(1604年)工事が始められ、三年後の慶長12年(1607年)に遷座祭が行われ、仙台藩総鎮守として鎮座されました。
この際、旧領の羽前国米沢にて代々尊崇しておりました成島八幡宮と共に祀られました。
御社殿造営にあたっては、当時豊臣家に仕えていた当代一流の工匠が京、大坂、和歌山などから招聘され、その手に成った御社殿は豪壮にして華麗なる桃山建築の特色が遺憾なく発揮されたもので、藩政時代を通じ歴代藩主の篤い尊崇を受け、仙台六十二万石の総鎮守として伊達家の威風と桃山美術の絢爛たる息吹を今に伝えております。
御社殿の内外にはふんだんに極彩色で彩られた彫刻が施され、随所にきらびやかな飾金具が取り付けられた黒漆塗りが絢爛豪華さの中に落ち着いた風格を現し、全体的に美しい調和をなし、また拝殿内部には、狩野派の絵師佐久間左京の筆に成る唐獅子の障壁画や大虹梁の青龍、石の間の格天井には数十種の草花が描かれ、豪奢な桃山時代の気風を感じることが出来ます。
内部の彩色は創建当初の彩色がそのまま残され、また後の日光東照宮につながる形式(相の間造りまたは石の間造り)である権現造りの現存最古の建造物として、桃山様式を代表する大変貴重な存在であり、昭和27年に御社殿全体が国宝に指定されております。
平成11年度から6ヶ年度をかけて国庫補助事業として、御創建以来初めてとなる大規模な御社殿の保存修理工事が行われ、創建時の美しさを現代に甦らせました。それに合わせ、御社殿周囲の環境整備事業を行い、祭儀棟、神輿殿、透塀、西廻廊などを建設し、平成18年には御鎮座400年奉祝記念大祭が盛大に斎行されました。
毎年9月には、14、15日を中心に例大祭が行われ、藩政時代より続く流鏑馬神事や宮城県指定無形民族文化財の能神楽、八幡町ゆかりの雀踊り、そして総勢500名を越す神幸祭(神輿渡御)などが盛大に斎行されます。
又、1月14日には正月送りの行事として全国的にも有名な、正月飾りを焼納する松焚祭(どんと祭)が行われ、2,000名を越す裸参りの参拝や、一晩で10万人の参拝者が訪れ終夜境内を賑わします。"
国道48号線に一之鳥居が面しており、二之鳥居をくぐって四谷用水を渡り、大階段を上ると三之鳥居があります。
国道48号線沿いにある一之鳥居です。御鎮座380年記念の銘鈑がありました。鳥居の篇額は4畳分もの大きさだそうです。鎌倉の鶴岡八幡宮と同じく、「八」の文字が鳩になっています。
宮城県指定有形文化財の二之鳥居です。四代藩主伊達綱村公が寄進し、1668年造の古いものです。鳥居の石材は現岩手県一関市から取り寄せた花崗岩だそうです。
二之鳥居をくぐると橋があります。
橋の下は暗渠になっています。この暗渠は、江戸時代に城下を潤した四谷用水です。
水に恵まれなかった城下で、生活用水、防火用水、農業用水などに使われました。「土木学会選奨土木遺産」に認定されています。
詳しくは(「四ツ谷用水」と河岸段丘を巡る仙台地形散歩)
大石段は、慶長12年(1607)の大崎八幡宮創建時からのものです。98段とも100段とも言われるのだとか...、踊り場を入れるかが入れないかの違いの様です。大石段は仙台市の登録文化財です。
大石段の横にある月の灯篭です。
大石段の両脇には江戸時代の灯篭が残っています。享和元年(1801)の文字が見えます。
大石段のうえから見ると、なかなかの勾配です。
大石段を上り切ったところの狛犬。
当初は、享保3年(1718)に五代藩主伊達吉村公により寄贈された三之鳥居です。扁額の文字「八幡宮」は吉村和公自身によるものです。扁額の周囲には伊達家の家紋「日の丸」「竹に雀」「丸の内に三ツ引両」「九曜」「蟹牡丹」「竜胆車」の六紋で装飾されています。
三之鳥居をくぐり、少し高くなったところには砂地の広場があります。国の登録有形文化財である社務所が見えます。
参道に戻ると「石絵馬(いしえま)」というものがありました。当初は馬の銅像が乗っていましたが、太平洋戦争で金属供出により撤去されたそうです。「石絵馬」は昭和30年に建立され、現在の台座に移ったのは平成11年のことです。
昭和20年ごろまで御神馬がいたという「神馬舎(じんめいしゃ)」は大正期建造です。
手水舎。
金毘羅社
沼田豊前正藤原茂密石像(ぬまたぶぜんふじわらのしげみつせきぞう)
少し高くなったところに長床があり、その奥に国宝の御社殿があります。
左手には「諏訪社」「鹿島社」「北辰社」「龍神社」の末社が並んでいます。
長床前の狛犬。
長床という建物で、国の重要文化財に指定されています。古文書により、貞享3年(1686)に存在していたことが分かっていますが建築年は不詳です。宮城県内では最古のものだそうです。
長床には古い大きな絵馬などがいつくか飾られていました。この絵馬も貴重なものだと思います。
桃山建築の傑作とされる国宝の「御社殿」です。絢爛豪華な美しい建物です。手前は拝殿で、奥の本殿は正面からは確認できません。
中も外も漆塗りの漆黒で、その上に極彩色の彫刻と飾り金具が目を引きます。
最後に江戸中期に制作されたという神輿を見学しました。
大崎八幡宮の御朱印です。
大石段をはじめ、参道が美しく、3つの鳥居を進むごとに空気が変わるよう感覚がありました。
伊達政宗公から始まった大崎八幡宮の歴史は、今でも着実に引き継がれています。
"仙台市の観桜地として有名な榴ヶ岡に鎮座する榴岡天満宮は、社殿によれば平安時代の天延2年(974)に山城国(現在の京都府)に創建、平将春により陸奥国宇多郡(現在の福島県)に勧請された。その後小田原(現在の仙台市青葉区)への御遷座を経て、寛文7年(1667)7月25日には三代藩主伊達綱宗公の意思により四代藩主綱村公によってこの榴ヶ岡に遷され、丹塗りの社殿・唐門を新たに造営、菅原道真公の真筆(直筆の書)が奉納された。
当社の御祭神である菅原道真公(天満大自在天神)は、学問・政治の主祭神であり、また弘法大師、小野道風と共に、書道の三聖として時歌・書道の神としても尊信されている。
境内には市指定文化財の芭蕉句碑があり、唐門は市登録文化財となっている。"
"政宗が育んだ"伊達"な文化
つゝじが岡及び天神の御社
「つゝじが岡」の一画に位置し、「天神の御社」と『おくのほそ道』に記された榴岡天満宮の境内には、寛文7年(1667年)建立の唐門、樹齢が約300年を超えるとされるシダレザクラ・シラカンの老樹など、松尾芭蕉が訪れた頃をしのばせる景物が残るほか、その後に芭蕉を顕彰して建てられた数多の句碑もあります。平成27年3月に国の名勝「おくのほそ道の風景地 "つゝじが岡及び天神の御社」に指定されました。"
丘陵地に立地する榴岡天満宮はJR仙石線榴ヶ岡駅北側の高台に位置しています。
「躑躅岡天満宮」と書かれた扁額が鳥居にあります。かつて外務大臣や大蔵大臣を歴任した愛知揆一(あいち きいち)氏の書です。
天満宮と言えば、梅が植えられていることが多いですが、榴岡天満宮の梅が咲き始めていました。
松尾芭蕉が「奥の細道」で訪れたことから、多くの句碑が設置されています。
こちらは筆塚です。
手水舎には鷽(うそ)の置物が置かれていました。榴岡天満宮では「鷽(うそ)替え厄除祈願祭」という祭事が行われているそうです。
"鷽(うそ)替え厄除祈願祭
どんと祭(一月十四日)と初天神(一月二十五日)に併せ旧年中の悪い成績や災難・知らず知らずのうちに使ってしまった「嘘」を、天神さまの御神徳により「真っ赤なうそ」に替え、新年は良い年になることを祈願する当宮の特殊神事です。祈願祭ご参列の方に限り、当宮限定の「真っ赤な鷽替え御守」をお授けいたします。また、当日に授与所にて頒布する一刀彫の鷽(うそ)のなかに数羽だけ「真っ赤な鷽(うそ)」がおり、それを受けられた方は、その年が最良の年になると伝えられています。お受けになられた鷽はお持ちになられ続けても良いですし、翌年のどんと祭で御神火に納められ新しい鷽をお受け戴き「うそ替え」をされても構いません。受験生の合格成就の御守として、また家内安全・商売繁盛・開運招福の御守として、古来より天神さまゆかりの鳥である鷽たちが皆さんのもとへ羽ばたいてまいります天神さま限定の特別なお祭りです。
榴岡天満宮HPより"
"天神のさまと撫で牛
御祭神 菅原道真公は、承和12年(845年)に誕生されましたが、この年は乙牛(きのとうし)でありました。
また、延喜3年にお亡くなりになりましたが、轜車(じしゃ)を「人にひかせず牛の行くところにとどめよ」との御遺言で、その場所を墓所と定め、その場所が都府楼(太宰府の庁舎)の北東(丑寅)の方であったなど 多くの牛との関わりや伝承があり、天神さまには牛がつきものとなり、「神使(神のみつかわしめ)」としてのつながりを持つようになり、撫で牛は御祭神とご参拝の方々を繋ぐ大切な役割を果たしています。"
仙台市登録文化財の唐門です。寛文7年(1667年)建立です。
茅の輪くぐりの茅の輪が唐門にありました。
唐門前の狛犬です。可愛らしい雰囲気の狛犬でした。
御社殿です。
所どころに梅のマークがあります。
御社殿は総欅造りです。
「願い叶う筒」を結んで納める納所です。
御朱印をお願いすると、立派な「御朱印帳お預かり駒札」というものを渡されました。他のところでは番号札が多いと思うのですが、こんなに立派な預かり札は初めてです。
御朱印をいただき、さらにびっくりです。今まで頂いた御朱印は片面ずつ(写真の半分)でしたが、全面を使っています。菅原道真公の和歌が添えられていました。梅の判も華やかです。
御朱印に添えられた和歌
「東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るそ」
「東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」(『拾遺和歌集』表記)
東風が吹いたら 香りをおこして届けてくれ梅の花 主人がいなくなっても 春を忘れないでくれ
天満宮は上品で女性的な柔らかさがある神社が多いように感じます。榴岡天満宮は御朱印同様に華やかさがある天神さまでした。
由緒の看板がありましたが難しいので愛宕神社のホームページから引用します。
"由緒
当神社は仙台駅より南へ約3.5km、仙台城(青葉城)址より南東へ約2.5kmに位置し、東に太平洋、西に蔵王連峰、南に大年寺山(伊達家四代以降歴代霊廟)、北に栗駒山、眼下は清い流れの広瀬川を望み老杉茂る景勝の地、愛宕山に主祭神軻遇土神のほか十二神をお祀り申し上げます。
現在の社殿は慶長8年、藩祖政宗公千代城に入城と同時に御造営になり御遷座申し上げております。
当神社は古く羽州米澤に御鎮座になられ、天正19年(1591)藩祖伊達氏十七世政宗公が、米澤より陸奥國玉造郡岩出山に移るに際して、社も岩出山に御遷座、慶長5年(1600)千代城を青葉山に築城、名を仙臺(台)と改められ、慶長8年(1603)政宗公入府に合わせ社も一時国分荒牧村(現元寺小路)に仮遷座を行い、同年仙台城や城下を一望できるこの愛宕山(以前天狗山とも称す)に御社殿を御造営になられ、御遷座申し上げ、誓願寺を別当寺とし、合わせて5貫720文を寄進されております。
以後藩内の安全を祈願するなど、特に火防の祭は城下挙げての盛大な祭りが行われたといわれます。この様に歴史を見てまいりますと、政宗公が知行地を移す毎に当社をお祀りしていたことがわかります。
政宗公の意志を継いだ歴代の藩主特に2代藩主忠宗公慶安3年(1650)4代藩主網村公元禄7年(1694)に改修、修復工事を行っております。その後は歴代藩主の小規模ながら修理等が繰返され、ことに5代藩主吉村公は祭田30石を献納するなど、この時代には仙台の代表的な神社となっております。皇室の御安泰、国家鎮護、藩内の安全を祈る歴代藩主の尊崇ことのほか篤いものがありました。
ことに股肱白石城主片倉小十郎景網の長子重網は家臣の兜の前立にまで「愛宕代権現」の護符を差し挟み、大阪の役の戦陣に立ち勇猛であったと伝えられております。天明元年(1781)菊池岡左衛門廣隆は石華表(鳥居)壱基を、若生儀兵衛は石段を奉納、大正12年吉田つぎ子刀自は嗣子と共に石段の補修と拝殿までの敷石200余間(凡364米)を奉納するなど藩政時代から現代に至るまで、藩主・家臣・庶民の信仰すこぶる厚いものがあります。当神社例祭には仙台市内全域の神興渡御が市民こぞって盛大に行われ、取り分け終戦直後、戦火により廃墟となった市中の復興と、市民の心の奮起を願い、戦前にも勝る神興の渡御が3カ年連続して斎行され、杜の都仙台市の復興と発展(現青葉まつり)の基となったことは特筆されるものであります。
末社稲荷神社を奉斎します。
愛宕神社HPより"
国道286号線から少し上がった場所に愛宕神社の鳥居があります。
鳥居をくぐると石段が目の前にそびえています。階段は215段あるようです。
上から見るとなかなかの眺めです。
さらに石段を上ると二之鳥居があります。東日本大震災で倒壊したそうですが、復興祈願を念じて奉納された鳥居です。
さらに少し上っていくと三之鳥居が見えてきます。こちらの震災後に奉納されたもののようです。
頂上部には石の鳥居があります。
随神門が見えてきます。向かって左に「日本最大の烏天狗」、右には「日本最大の大天狗」の坐像(2m50cm)が祀られています。
見えにくいですが、日本最大の烏天狗です。
こちらも見えにくいですが、日本最大の大天狗です。
変わった形の手水舎です。さざれ石のような石に見えますが分かりません。
拝殿の横に配置された狛犬です。赤い布が前掛けのように掛けられていました。仙台にはこの様な造形の狛犬が多いように思えます。
こちらが拝殿になります。
水神の石像です。
左奥が愛宕天満宮、右の手前が稲荷大明神です。
左かから勝閧神社(かちときのかんやしろ)、産霊神社(むすひじんじゃ)、 軍艦愛宕宮城県出身戦没者慰霊の碑
樹齢約350年のエドヒガン桜の木、仙台市の保存樹木になっています。
展望台からの眺めです。仙台の中心部が一望できます。広瀬川の流れも美しい。
愛宕神社の御朱印です。素晴らしくきれいな字です。
政宗公とともに仙台に遷り、仙台総鎮守として崇められてきた神社は、石段を踏みしめて上ることでご利益が多くなるように感じました。仙台六芒星と言われる形からは、最も底に位置して青葉神社(旧東昌寺)とは対角にあります。仙台総鎮守として、高台から全体を見守っているかのようです。
仙台藩62万石の居城仙台城(青葉城)は青葉山の地形を生かした天然要塞です。東は広瀬川と断崖、西は原生林、南は南は竜ノ口峡谷に守られます。標高は約116mで、今も伊達政宗公の騎馬像が仙台の街を見守っています。
仙台城(青葉城)本丸跡に創建された宮城縣護国神社は、明治維新以降の諸事変や戦役における宮城県関係あるいは縁故のある戦死・殉難者、5万6千余柱を祀っています。
"仙台城跡
伊達政宗によって築かれた伊達氏の居城跡です。建設地の青葉山はかつて霊場であった場所で、そこに自然地形を活かし、高い石垣をもつ城郭を築きました。関ヶ原の戦い直後の慶長5年(1600年)12月に城の縄張りが行われ、翌年1月から普請に着手。工事は慶長7年(1602年)には一応の完成をみたとされています。二の丸は2代藩主忠宗によって造営され、以降藩政の中心となりました。"
巽櫓(たつみやぐら)跡からの眺めです。下は断崖絶壁でその先には広瀬川が蛇行して流れています。
中央部が花壇自動車学校、広瀬川が大きくうねった場所にあります。その先には経ヶ峰大露頭と呼ばれる断崖です。亜炭などを含む向山層が広瀬川凝灰岩部層を挟んだ地層が見られます。
北東方面、左の大きな建物は仙台国際センター、その先には仙台市地下鉄東西線が橋梁を渡っています。この後、地下鉄として日本で最も勾配がある坂を上っていきます。
標高約116mから、仙台市中心部を一望できます。伊達政宗像がこの景色を見つめます。
" 仙台藩祖伊達政宗卿騎馬の銅像が森の都仙台の青葉山につくられたのは昭和10年のことである。ときの宮城県青年団が郷土の彫刻家小室達氏に託して制作した。19年1月太平洋戦争による金属徴用でその姿を消したが 28年10月新たに卿の平服姿をかたどった白色セメント立像を小野田セメント株式会社が制作して市に贈った。
たまたま騎馬像の原型が柴田町に保存されていることがわかり 銅像再建を望む声が高まったので 37年10月本協会法人改組の記念事業として復元を企てたところ 幸いに宮城県 仙台市 柴田町の支援と県内外の熱心な協賛を得て事業もはかどり ここに卿の雄姿を復興することができた。
経済の開発と文化の発展につくした英雄の風格は郷土繁栄の象徴として その遺徳とともに永遠にたたえられるであろう。
昭和39年10月1日
社団法人 仙台市観光協会
会長 島野 武"
「明治元年現状仙台城市之図」、江戸の町割りを残す図です。芭蕉の辻が道路の起点になっているのがわかります。仙台城の鬼門が仙台東照宮で、鬼門である北東のラインをベースにして、大手門から芭蕉の辻に伸びる道の傾きが決まっています。
大広間の遺構表示です。基礎の石を再現して大広間を再現しています。
築城時の石垣モデルと本丸北壁の石垣モデルです。年代で石垣の積み方が違うのがわかります。
本丸北側石垣です。先ほどのモデルで積まれたきれいな線が特徴的です。
"由緒
明治維新から大東亜戦争に至るまで、幾多の戦没で尊い命を御国に捧げられた 郷土の出身者の み霊を祀る。
明治37年8月27日仙台城(青葉城)本丸址に招魂社として創建され、昭和14年内務大臣指定護國神社となり、昭和20年7月仙台大空襲の戦火により神社施設を全焼したが、戦後現在の姿に復興した。
現在、御祭神56,000余柱をお祀りしている。
〔神社本庁包括別表神社〕"
仙台城は現在の仙台の街が作られた起点となっています。町割りの起点なのです。
仙台城跡からは今でも伊達政宗公が仙台の街を見守っています。今の仙台の発展を誇らしげに見つめているかのようです。
"新大橋の由来
新大橋は、元禄6年(1693年)12月7日に現在地よりやや下流に、はじめて木の橋が架けられた。
両国橋が、万治2年(1659年)に架けられて、その当時「大橋」と呼ばれていたので、 その下流に新しく架けられたこの橋を「新大橋」と称した。
その頃、新大橋近くの深川に住んでいた俳人松尾芭蕉は、新大橋の架橋を喜んで次の句をよんだ。
初雪やかけがゝりたる橋の上
有難やいたゞいて踏む橋の霜
以来、新大橋はたびたび架けかえられたが、明治45年(1912年)7月19日、現在位置に鉄橋の新大橋が誕生した。
この鉄の橋は、関東大震災(1923年)および太平洋戦争の大空襲(1945年)にも耐え、 橋上において多くの人の命が助かったため、「人助けの橋」といわれるようになった。
その鉄橋は、六十有余年の間、道路橋としての使命を十分に果たして、昭和52年3月27日、現在の橋に架けかえられた。 なお、その鉄橋の一部は、愛知県犬山市の「明治村」に保存されている。 "
江戸時代の新大橋
明治時代の新大橋
豊田スダレ店
看板建築の豊田スダレ店は明治39年創業、料亭などで使われる高級すだれ専門店です。 昭和61年には江東区無形文化財に指定されています。歌舞伎や舞台で使用される御簾も製作しています。
松尾芭蕉は、延宝8年(1680)日本橋から深川の草庵に移り住みます。草庵を拠点に多くの名句や「おくのほそ道」など残しました。
八名川公園・六間堀跡八名川公園南側入り口の隣には富永和裁所があります。大相撲の呼び出しさんが履く袴「たっつけ袴」を専門としている全国唯一の職人さんがいます。
八名川ラジオ体操会場、年中無休だそうです。
八名川公園という公園があり、中に入ってみると「六間堀跡」という案内板を見つけました。江戸時代には新大橋が小名木川寄りだったように見えます。
"六間堀跡 所在地 新大橋3-18~常盤1-19
六間堀は、深川村開拓当初、小名木川と堅川を結ぶ水路として開いたようです。名称は、川幅が六間(約10.8m)あったところから付けられたたもので、地元にとって重要な河川でした。
しかし、水運利用の減少によって、昭和26年に埋め立てられました。六間堀の跡は、道路と宅地になっていますが、歩いてみると、当時掘割であった頃の様子が、よくわかります。"
割烹みや古(深川めし)
大正13年創業の老舗です。蒸篭で蒸し上げ、風味豊かに炊き込まれた深川めしです。平日土曜日限定のランチメニュー「深川めしセット」をいただきました。深川めし、吸物、煮物、小物、新香がセットになっています。
老舗割烹 本家深川めし「みや古」でランチ
(七福神:寿老神)深川神明宮
"深川神明宮(寿老人)
由来
この辺一帯は、慶長年間(1596-1614)に摂津国(大阪府)の深川八郎右衛門ほか6人が新田を開拓し、八郎右衛門の姓をとり深川村と名づけられた、深川村発祥の地です。八郎右衛門は持地内の小祠に神明を勧請したと伝えられ、これが深川神明宮です。
のち、現在の新大橋・常盤・高橋・森下・猿江・住吉あたりの開拓が進み、八郎右衛門は代々名主をつとめました。
深川七福神のひとる(寿老人)として親しまれています。"
伊東深水誕生の地日本画家 伊東深水誕生の地の案内板。深水の雅号は、深川の水にちなんだもので師匠の鏑木清方(かぶらぎきよかた)がつけたものです。
昭和5年(1930)開通の小名木川にかかる第一橋梁です。下流側は隅田川と合流する河口になります。上流側には新小名木川水門があります。1径間下路ブレースドリブタイドアーチ橋。きれいな橋です。
延宝8年(1680)の江戸図に配されていることから、この頃には架かれたいたとのことです。
小名木川に架かる第一橋梁「萬年橋」とケルンの眺め(清洲橋)
ケルンの眺め(清州橋)
高橋小名木川の左岸側を進み、高橋まで行ってみました。手前は送水管でしょうか、奥に見えるのが高橋です。小名木川の第二橋梁になります。"川船番所跡 (常盤1-1付近)
川船番所は幕府により設けられた番所で、万年橋の北岸に置かれ、川船を利用して小名木川を通る人と荷物を検査しました。
設置の年代は明らかではありませんが、正保4年(1647)に深川番の任命が行われていることから、この頃のことと考えられています。江戸から小名木川を通り利根川水系を結ぶ流通網は、寛永年間(1624-44)にはすでに整いつつあり、関東各地から江戸へ運ばれる荷物は、この場所を通り、神田・日本橋(現中央区)など江戸の中心部へ運ばれました。こうしたことから、江戸の出入り口としてこの地に置かれたことと思われます。建物の規模などは不詳ですが、弓・槍などがそれぞれ5本ずつ装備されていました。
明暦3年(1657)の大火後、江戸市街地の拡大や本所の掘割の完成などに伴い、寛文元年(1661)中川口に移転しました。以後中川番所として機能することとなり、当地は元番所と通商されました。
平成14年10月
江東区教育委員会"
"深川稲荷神社(布袋尊)
由来
深川稲荷神社は、寛永7年(1630)の創建と伝えられています。
以前は、旧町名の西大工町にちなんで俗に西大稲荷と呼ばれていました。関東大震災(1923)の後の区画整理により町名が変更し、昭和27年頃から深川稲荷神社となりました。
深川七福神のひとつ(布袋尊)として親しまれています。"
昭和8年建築の「清州寮」です。鉄筋コンクリート4階建てで、かなり大きな建物です。
1階はリノベーションしたカフェなどが入り、多くのクリエーターさんなどが住んでいるそうです。古さが新しさを生み出している清澄らしい建物ではないでしょうか。
清澄庭園
三河屋精米店懐かしいポン菓子など店頭で売られ、賑わっていました。
看板建築(清澄通り)
清澄通りの清澄公園沿いには看板建築が軒を連ねています。こちらにもリノベーションしてお洒落なお店も入っています。
江戸みやげ屋たかはし
御主人がちょんまげのカツラと法被で接客するお土産屋さんです。駄菓子や佃煮、手ぬぐい、懐かしい玩具など幅広い品揃えで外国人観光客からも人気のお店です。
霊巌寺(松平定信墓)
陸奥白川藩藩主で寛政の改革で有名な松平定信の墓がある霊巖寺です。
深川江戸資料館江戸の町並みに再現した常設展示などで江戸の歴史や文化を学ぶことができます。
深川釜匠深川めしで人気の深川釜匠です。
(七福神:毘沙門天)龍光院
"龍光院(毘沙門天)
由来
龍光院は浄土宗で、もとは雲光院の塔頭のひとつでした。慶長16年(1611)馬喰町(中央区)に創建されました。明暦3年(1657)の大火で全焼したため岩井町(同区)へ移転し、さらに、天和2年(1682)再び焼失し、同年現在地へ移りました。
深川七福神のひとつ(毘沙門天)として親しまれています。"
福富川公園(木場の香)
福富川は江戸時代は貯木場として使われていたようです。T字型の水路で南側が仙台堀川、東側が大横川に繋がっていました。現在は埋め立てられて福富川公園になっています。貯木場だったためか、公園の名称に(木場の香)と添えられています。下の写真は公園の上に架かる橋です。
間宮林蔵の墓
"間宮林蔵墓
間宮林蔵は、安永9年(1780、一説に安永4年)、常陸国(茨城県)筑波郡上平柳村に生まれ、天保15(1844)年に深川蛤町の家で没しました。
名は倫宗(ともむね)といい、伊能忠敬に測量を学び、寛政12年(1800)年に幕府の蝦夷地御用雇となり、蝦夷(北海道)をはじめとする北地探検と測量に従事しました。
文化5(1808)年、幕命により松田伝十郎とともに樺太(サハリン)を探検した林蔵は翌年7月2日単身樺太からシベリアへ渡って沿海州に入り、黒竜江(アムール川)をさかのぼりデレンに達しました。この15ヵ月間におよぶ探検で、樺太が島であることが明らかとなりました。
林蔵は後に間宮海峡と命名される海峡を欧州人にさきがけて発見したことにより、地理学者、探検家として世界的に有名となりました。
平成2年2月1日
江東区教育委員会"
"円珠院(大黒天)
由来
円珠院は日蓮宗で、もとは浄心寺の塔頭のひとつでした。創建の年は不明ですが、開山は義勝院日演(寛保元年、1741没)です。
開基の円珠院は、永見重直の娘で、のち永井讃岐守直允の後室となりました。青年は不明ですが享保15年(1730)12月20日に没し、自ら開いた円珠院に葬られました。
深川七福神のひとつ(大黒天)として親しまれています。"
理科室蒸留所(リカシツ)
この界隈で理科の実験器具など販売しているリカシツの「理科室蒸留所」です。こちらではコーヒーを飲むことができます。
理科室蒸留所の近くにあるリカシツ、隣はfukadaso cafeというカフェです。トタンの壁がお洒落です。お店の中は理科の実験器具が売られていますが、実験器具とは思えないお洒落さで見入ってしまいます。古いアパート兼倉庫だった場所を改装した店舗だそうです。
仙台堀川(木更木橋)
木更木橋から仙台堀川を眺めてみました。上の写真で奥に見えるのが亀久橋です。木更木橋の欄干には江戸時代の材木問屋の絵図が埋め込まれていました。
坪井信道日習堂跡深川第二中学校の正門横にあった案内板です。江戸時代の蘭方医である坪井信道が開いた学塾日習堂の跡です。
(七福神:弁財天)冬木弁天堂
"冬木弁天堂(弁財天)
由来
冬木弁天堂は、材木商冬木五郎右衛門直次が承応3年(1654)に江州竹生島(滋賀県)の弁財天の分霊を日本橋茅場町(中央区)の邸内にまつり、宝永2年(1705)にその孫弥平次がこの地に移したと伝えられています。
深川七福神のひとつ弁財天として親しまれています。"
富岡八幡宮は寛永4年(1627)、当時永代島と呼ばれていた現在地に創建されました。小島だった永代島周辺を埋め立て、境内から富岡町・門前仲町を含む社有地を得ました。江戸最大の八幡さまです。
明治維新に際しては准勅祭社に指定された東京十社のひとつです。
深川七福神のひとつ恵比寿神がとして親しまれています。
八幡橋(八幡堀遊歩道)
富岡八幡宮の東側に八幡堀遊歩道があり、そこには東京で最初に架けられた鉄橋が移設されています。菊の紋章があるのも特徴です。
八幡橋(旧弾正橋)と旧新田橋=八幡堀遊歩道=
"国指定重要文化財(建造物)
旧弾正橋(きゅう だんじょうばし)(八幡橋)
富岡1-19~富岡2-7
昭和52年6月27日指定
八幡橋は、東京市で最初に架けらた鉄橋である。長さ15.2メートル、幅2メートル、単径間アーチ橋の形式をとる。アーチ橋は鋳鉄製で5本の直材をつなぎ、その他の引張材は錬鉄製の鋳錬金剛の橋である。もとは、京橋区(中央区)の楓川にかけられていたものである。経緯については、「八幡橋新橋来歴」に詳しく記されている。この橋は明治11年(1878)、東京府の依頼により工部省赤羽製作所で製造された。はじめは弾正橋と称していたが、大正2年(1913)の市区改正により新しい弾生橋が架けられたため、元弾正橋と改称された。さらに、関東大震災後の帝都復興計画により廃橋となり、昭和4年(1929)、現在地に移設された。富岡八幡宮の東隣であるため、名称も八幡橋と改められた。現存する鉄橋としては最古に属するものであり、また、菊の紋章のある橋としても有名である。鋳鉄橋から錬鉄橋に至る過渡期の鉄橋として、近代橋梁史上貴重なものであるとともに、独特な構造手法を用いて施工してあり、技術史の上でも勝の高い橋である。
江東区教育委員会"
旧新田橋(八幡堀遊歩道)
"旧新田橋
新田橋は、大横川(旧大島川)に架かり、江東区木場5丁目から木場6丁目を結ぶ、町の人々の暮らしを支え続けてきた小さな橋の人道橋です。
大正時代、岐阜県から上京し、木場5丁目に医院の開業をしていた新田清三郎さんが、昭和7年、不慮の事故で亡くなった夫人の霊を慰める「橋供養」の意味を込めて、近所の多くの人たちと協力して架けられたものです。
当初、「新船橋」と名付けられたが、町の相談役としても人望が厚く、「木場の赤ひげ先生」的な存在であった新田医師は、亡くなった後も地域の人々から愛され、いつしか「新田橋」と呼ばれるようになりました。
また、映画やテレビの舞台ともなり、下町の人々の生活や歴史の移り変わり、出会いや別れ、様々な人生模様をこの橋は静かに見守り続けてきました。
『旧新田橋 諸元』
橋梁形式:一径間ワーレン鋼構橋
橋長:23.355m 幅員:1.806m
塗装色:茶系(昭和7年架設当時の塗装色を再現)
※塗装色は護岸工により架替えられるまで赤系の色が塗られ赤い橋としてもしたしまれた。"
八幡堀遊歩道は、運河だったところを埋め立て出来た遊歩道です。
法乗院(深川えんま堂)
法乗院(深川えんま堂)は、寛永6(1629)年創建という真言宗の寺院です。日本最大の閻魔大王座像(全高3.5m、全幅4.5m)が安置されています。江戸時代に描かれた『地獄極楽絵』が本堂に安置されています。
(七福神:福禄寿)心行寺
"心行寺(福禄寿)
心行寺は雙修山養源院と号し、開山は、光蓮社団誉一路屋道で、養源院は開基です。元和2年(1616)に、八丁堀に創建され、寛永10年(1633)に現在地に移りました。
養源院は岩国藩主吉川広嘉(1621~1680)の妻で、承応3年(1654)に没しました。広嘉は岩国藩主として二代目で、延宝元年(1673)には、錦帯橋を架橋しています。
深川七福神(福禄寿)として親しまれています。"
Babaghuri 本店
倉庫街の古い建物をリノベーションした社屋です。衣・食・住を心地よくしてくれる手仕事で作られた商品が売られています。
江東区立深川図書館
江東区立深川図書館は東京市立図書館として明治42年(1909)に設立された歴史ある図書館です。現在の建物は平成5年(1993)に建て替えられてものですが、この地域にマッチした重厚な建造物です。
カフェが集まり、リノベーションした新しいお店が多い街でありながら、江戸情緒を残しているように感じました。
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葛飾北斎の「富嶽三十六景 深川万年橋下」が描かれた案内板です。
” 万年橋は、区内の橋のなかでも古く架けられた橋のひとつです。架橋された年代は明らかではありませんが、延宝8年(1680)の江戸図には「元番所のはし」として配されているので、この頃にはすでに架けられていたことがわかります。
江戸時代には、この橋の北岸に小名木川を航行する船を取締る、通船改めの番所が置かれていました。この番所は、寛文年間(1661~73)の頃に中川口へ移され、このため「元番所のはし」とも呼ばれました。
小名木川に架けられた橋は、船の通航を妨げないように高く架けられていました。万年橋も虹型をした優美な橋で、安藤広重は「名所江戸百景」のなかで「深川万年橋」としてとりあげています。また、葛飾北斎は「富嶽三十六景」のひとつに「深川万年橋下」として、美しい曲線を描く万年橋を大きく扱い、その下から富士山を望む、洋画の影響をうけた錦絵を残しています。”
葛飾北斎は「富嶽三十六景 深川万年橋下」として橋全体を描いています。対照的に安藤広重の「名所江戸百景 深川万年橋」は、欄干の一部のみ描かれています。手桶の取手に吊るされた亀が万年橋の欄干の間から富士山を眺める構図です。「鶴は千年亀は万年」、亀は万年橋と繋がりがったのですね。
2つの浮世絵から、江戸時代には万年橋から富士山がきれいに見えていたことが分かります。
橋の北側には松尾芭蕉の草庵がありました。松尾芭蕉は、延宝8年(1680)日本橋から深川の草庵に移り住みます。草庵を拠点に多くの名句や「おくのほそ道」など残しました。
"川船番所跡 (常盤1-1付近)
川船番所は幕府により設けられた番所で、万年橋の北岸に置かれ、川船を利用して小名木川を通る人と荷物を検査しました。
設置の年代は明らかではありませんが、正保4年(1647)に深川番の任命が行われていることから、この頃のことと考えられています。江戸から小名木川を通り利根川水系を結ぶ流通網は、寛永年間(1624-44)にはすでに整いつつあり、関東各地から江戸へ運ばれる荷物は、この場所を通り、神田・日本橋(現中央区)など江戸の中心部へ運ばれました。こうしたことから、江戸の出入り口としてこの地に置かれたことと思われます。建物の規模などは不詳ですが、弓・槍などがそれぞれ5本ずつ装備されていました。
明暦3年(1657)の大火後、江戸市街地の拡大や本所の掘割の完成などに伴い、寛文元年(1661)中川口に移転しました。以後中川番所として機能することとなり、当地は元番所と通商されました。
平成14年10月
江東区教育委員会"
萬年橋の下流側は隅田川で、その先に清州橋(改修工事中)が見えます。この眺めがケルンの眺めと言われます。ドイツケルン市に架けられたライン河の吊り橋がモデルの清州橋、この場所からの眺めが一番美しいと言われています。
2013年撮影 隅田川から見える清州橋とスカイツリー
日本橋から神田川クルーズ 舟から見る日本橋や聖橋に感動
現在の橋は昭和5年(1930)に架けられました。 1径間下路ブレースドリブタイドアーチ橋、鉄筋コンクリート床鈑です。橋長:56.25m、幅員:17.2mとなっています。
芭蕉の句が書かれていました。
江戸時代に重要な水運ルートだった小名木川に架かる萬年橋は、浮世絵に描かれるなど古くから愛されてきました。松尾芭蕉が近くに移り住んだころに既に架けられており、芭蕉も当時の虹型の橋を眺めたのだと思います。
現在の橋も美しい景観であり、下町や江戸情緒を残す深川界隈にとけ込んでいます。
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”中央区文化財
柳橋
所在地 中央区東日本橋2丁目 台東区柳橋1丁目(神田川)
柳橋は神田川が隅田川に流入する河口部に位置する第一橋梁です。その起源は江戸時代の中頃で、当時は、下柳原同朋町(中央区)と対岸の下平右衛門町(台東区)とは渡船で往き来していましたが、不便なので元禄10年(1697)に南町奉行所に架橋を願い出て許可され、翌11年に完成しました。
その頃の柳橋辺りは隅田川の船遊び客の船宿が多く、”柳橋川へ蒲団をほうり込み”と川柳に見られる様な賑わいぶりでした。
明治20年(1887)に鋼鉄橋になり、その柳橋は大正12年(1923)の関東大震災で落ちてしまいました。復興局は支流河口部の第一橋梁には船頭の帰港の便を考えて各々デザインを変化させる工夫をしています。柳橋はドイツ・ライン河の橋を参考にした永代橋のデザインを採り入れ、昭和4年(1929)に完成しました。
完成から70余年、現在、区内では復興橋梁も少なくなり、柳橋は貴重な近代の土木遺産として平成3年に整備し、同11年に区民有形文化財に登録されています。
平成14年3月
中央区教育委員会”
”柳橋
柳橋の下を流れる神田川は、三鷹市井之頭池を水源とし、都心部を流れて隅田川に注ぐ全長約25kmの都市河川です。
この位置に初めて橋が架かったのは、元禄11年(1698)のことで、「川口出口之橋」あるいは近くに幕府の矢の倉があったことから「矢の倉橋」と呼ばれていました。
「柳橋」と由来については、
(1)矢の倉橋が矢之城(やのき)橋になり、さらに柳橋となる。
(2)柳原堤の末にあったことに由来する。
(3)橋の袂に柳の樹があったことに由来する。
このように諸説ありますが、真説は不明です。
明治維新後、柳橋は新橋とともに花街として東京を代表するような場所になり、新橋は各藩から出て政府の役人になった人々、柳橋は江戸以来の商人や昔の旗本といった人々が集まる所であったようです。
区では平成3年度に、優美な形をしたこの橋を後世に伝えるため、傷んだ親柱を復元し、欄干は花街に因んで「かんざし」を飾り、歩道には御影石を張って再生しました。また、夕暮れより照明の演出をして、神田川河口に架かる「柳橋」の存在感を持たせました。
平成4年1月 東京都中央区
柳橋の諸元
形式 タイド・アーチ橋
橋長 37.9m
遊行幅員 11.0m(車道6.0m 歩道2.5m×2)
建設年次 昭和4年12月(復興局施工)
春の夜や女見返る柳橋 子規
贅沢な人の涼みや柳橋 子規
現在でも船宿が軒を連ねています。屋形船で隅田川を下り、東京湾の夜景を楽しむことが出来ます。
船宿の入口にいた猫。
下流を見れば、すぐに隅田川が見えます。神田川の河口部です。
神田がクルーズから見た柳橋です。隅田川に出たところから写真を撮りました(2013年撮影)。
ライン川の橋を参考にされたデザイン、曲線が美しい橋です。
ボルトが美しく配列されています。
平成3年度の改修工事で、歩道の舗装には御影石が張られました。
こちらも平成3年度の改修工事で、欄干に飾られた「かんざし」です。
橋のたもとには復興記念の石碑がありました。
大正12年(1923)9月の関東大震災後に帝都復興院総裁として東京の帝都復興計画を立案した後藤新平が亡くなった年に柳橋は竣工しました。大正13年(1924年)2月に帝都復興院は廃止され、復興局に引き継がれます。復興局は昭和5年(1930)4月に復興事務局に改組、昭和7年(1932)に廃止されました。
柳橋は関東大震災から6年後、復興の終盤に架橋されたことになります。今年で竣工から90年となります。その後の東京大空襲を耐え抜き、戦後の復興を見てきた橋には歴史の重みを感じます。
遊歩道は緩くカーブしていて少し勾配があります。いかにも埋め立てられ川といった印象を受けます。
八幡橋(旧弾正橋)
八幡橋です。低くなった遊歩道を渡しています。
明治11年(1878)に東京で初めて架けられた鉄橋です。
菊の御紋が部材に使用されています。
アメリカ土木学会栄誉賞のレリーフです。
”国指定重要文化財(建造物)
旧弾正橋(きゅう だんじょうばし)(八幡橋)
富岡1-19~富岡2-7
昭和52年6月27日指定
八幡橋は、東京市で最初に架けらた鉄橋である。長さ15.2メートル、幅2メートル、単径間アーチ橋の形式をとる。アーチ橋は鋳鉄製で5本の直材をつなぎ、その他の引張材は錬鉄製の鋳錬金剛の橋である。もとは、京橋区(中央区)の楓川にかけられていたものである。経緯については、「八幡橋新橋来歴」に詳しく記されている。この橋は明治11年(1878)、東京府の依頼により工部省赤羽製作所で製造された。はじめは弾正橋と称していたが、大正2年(1913)の市区改正により新しい弾生橋が架けられたため、元弾正橋と改称された。さらに、関東大震災後の帝都復興計画により廃橋となり、昭和4年(1929)、現在地に移設された。富岡八幡宮の東隣であるため、名称も八幡橋と改められた。現存する鉄橋としては最古に属するものであり、また、菊の紋章のある橋としても有名である。鋳鉄橋から錬鉄橋に至る過渡期の鉄橋として、近代橋梁史上貴重なものであるとともに、独特な構造手法を用いて施工してあり、技術史の上でも勝の高い橋である。
江東区教育委員会”
人力車のモニュメントがあり、こちらにも八幡橋の説明がありました。
”八幡橋(旧弾正橋)
八幡橋は、明治11年(1878年)に京橋区楓川に架けられ、島田弾正屋敷が近くにあったことから弾正橋と呼ばれていました。
現在の中央区宝町三丁目付近に位置します。弾正橋は、馬場先門から本所・深川を結ぶ主要街路の1つで、文明開化のシンボルとして架橋されましたが、その後関東大震災の復興事業により廃橋となってしまいました。しかし昭和4年(1929年)には、その由緒を惜しみ現在地に移設され、八幡橋と名前も改められました。現在では江東区が大切に保存しています。
この東京名所図会(三ツ橋の現況)には、明治34年(1901年)頃の弾正橋(左奥)が描かれており、当時の情景が偲ばれます。
弾正橋・白魚橋・真福寺橋とをあわせ三ツ橋と呼び、古くから有名で人々から親しまれていました。”
旧新田橋
こちらは元々は木場で人道橋として利用されていた旧新田橋です。昭和7年に「橋供養」の意味を込めて架けらたという橋です。
”旧新田橋
新田橋は、大横川(旧大島川)に架かり、江東区木場5丁目から木場6丁目を結ぶ、町の人々の暮らしを支え続けてきた小さな橋の人道橋です。
大正時代、岐阜県から上京し、木場5丁目に医院の開業をしていた新田清三郎さんが、昭和7年、不慮の事故で亡くなった夫人の霊を慰める「橋供養」の意味を込めて、近所の多くの人たちと協力して架けられたものです。
当初、「新船橋」と名付けられたが、町の相談役としても人望が厚く、「木場の赤ひげ先生」的な存在であった新田医師は、亡くなった後も地域の人々から愛され、いつしか「新田橋」と呼ばれるようになりました。
また、映画やテレビの舞台ともなり、下町の人々の生活や歴史の移り変わり、出会いや別れ、様々な人生模様をこの橋は静かに見守り続けてきました。
『旧新田橋 諸元』
橋梁形式:一径間ワーレン鋼構橋
橋長:23.355m 幅員:1.806m
塗装色:茶系(昭和7年架設当時の塗装色を再現)
※塗装色は護岸工により架替えられるまで赤系の色が塗られ赤い橋としてもしたしまれた。”
元の場所で不要になった橋を残すという行為は無駄なように思われますが、橋への愛着や感謝の意味が込められているのだと思います。土木遺産としても貴重な存在だと思います。
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"本家深川めしの由来
古来より深川特産のあさりは、種々の調理法があり 池波正太郎先生の作品にも度々登場しております
剥き味と長ねぎの味噌仕立ての知るかけ丼や炊き込み飯等が ありますが当店の二代目春義が戦前に調理人として諸国の板場修行し その体験と味覚を充分に発揮して あさり持ち味を最大限に出し 独創的な炊き込み飯が 当店の「深川めし」であります
戦後は、諸般の事情に依り供膳を中断しておりましたが 近来は、水質も良好となって良質な「あさり」が採集されてます。
再度の研究を重ね風味を一層加えて食器をも考慮して現在の「本家深川めし」として客膳に供しましたるところ絶大なるご好評を頂きまして御陰様にて千客万来の賑わいであります。
この上は、尚一層の御愛顧をお願い申し上げます
みや古店主敬白"
店内も風情があります。あさりや川魚料理をはじめ、お刺身、天婦羅など魅力的なメニューが壁に貼られています。厚焼玉子焼に惹かれました。
ランチメニューの「深川めしセット」(1500円)をお願いしました。
吸物、煮物、小物、新香がセットになっています。
蒸篭で蒸し上げ、風味豊かに炊き込まれた深川めしです。昆布ダシに塩、醤油、酒などを加え、 あさり、ねぎ、油揚げを軽く煮た煮汁でご飯を炊くそうです。炊き上がる直前に具を乗せるという調理法です。
お店全体が風情があり、本家の深川めしを味わうには最高の雰囲気でした。噛みしめて食べるごとにあさりの旨味を感じられる美味しい炊き込みご飯でした。他のメニューも食べてみたいものです。
下町情緒という言葉が似合う浅草ですが、最近では外国人観光客が増えお洒落な雰囲気の店も増えつつあります。正直、昔(20年前)よりかなりきれいな街になったなあという印象を受けます。
とは言え、いまだにレトロな場所は多く残っています。その中でも"現存する日本最古の地下街"と言われる「浅草地下商店街」(昭和30年・1955年開設)は昭和にタイムスリップしたかのような空間を残しています。地図は最後に紹介します。
以前のホッピー通りです。近くにJRAのウィンズ浅草があることから、レースがあるときには朝から飲んでいる競馬ファンの率が高かったように思えます。
現在のホッピー通りは道路が広くなっています。以前に比べて若い人が増えて、客層の幅が広がったように感じます。多くの外国人観光客が飲んでいる姿も目にするようになりました。
ホッピー通りの中でも居酒屋浩司には何度も足を運びました。
ホッピーと牛すじ煮込みは外せません。
大鍋でグツグツと煮込む「牛すじ煮込」、牛すじは一度圧力鍋で煮るのだとか。とろける牛すじと旨味が詰まったスープは絶品です。
ハムカツや納豆揚げ、もつ焼き、鳥皮おろしポン酢、ポテトサラダ、砂肝ガーリックなど、名物おつまみを上げれば切りがありません。
浅草神谷バーの電気ブランは、飲み過ぎに注意。
電気ブランは神谷バーの創業者が作ったブランデーベースのカクテルです。神谷バー(右)はお洒落なビルです。
ライトアップされた浅草寺の五重塔と東京スカイツリー、定番の撮影スポットです。
再開発が進む東京の中で、ホッピー通りも少し様変わりしつつあります。それでも居酒屋浩司でホッピーと牛すじ煮込みを並べれば、変わらない安心感が湧いてきます。
奥州曹洞宗総録司、仙台城下曹洞宗四大寺主座の輪王寺は、北山五山には後から加わりました。嘉吉元年(1441)に福島県伊達市で創建、西山・米沢・ 会津・米沢・岩出山・仙台と6回移転。現在地には慶長7年(1602)に移転。回遊式庭園には三重塔や茶室を配します。 仙台藩祖伊達政宗夫人愛姫の母と八男・竹松丸の墓があります。本尊:釈迦牟尼仏
詳しくは(輪王寺(仙台市青葉区北山)の美しい参道と庭園)
"輪王寺と北山五山
輪王寺は嘉吉元年(1441年)伊達氏11世持宗が、祖母である9世政宗夫人の菩提寺として福島県伊達市梁川に創建したもので、伊達政宗公の仙台開府にあたりこの地に移った。
境内には、幼くして亡くなった政宗の八男・竹松丸と政宗の夫人愛姫の母の墓がある。自然豊かな中に三重塔、茶室を配する回遊式庭園が、静かなたたずまいを見せている。
北山五山は仙台市の北山一帯に点在する禅宗の寺の総称で、東昌寺、覚範寺、光明寺、資福寺、満勝寺のそれぞれが伊達家ゆかりの菩提寺になっており、京都五山にならってこの名が付けられた。満勝寺が移転したため、現在では輪王寺を含めて北山五山と呼ぶ場合がある。"
"輪王寺山門
輪王寺は、伊達氏11代伊達持宗によって嘉吉元年(1441)、伊達郡梁川(福島県梁川町)に創建され、伊達氏に従って仙台の地に移ってきた。現在地に移ったのは、慶長7年(1602)で、御一門格寺院として大伽藍を形成した。この山門が建立されたのは、元禄4年(1691)仙台藩四代藩主伊達綱村により仏殿、客殿などが整備された際になるものと見られ、明治9年(1876)の北山大火を免れた輪王寺境内唯一の遺構である。
三間一戸の八脚門(主柱四本の前後に控柱が四本ある門)で、切妻造、本瓦葺。柱はいずれも円柱で、棟の左右に鯱が載り、前面左右に仁王が配されている。江戸時代中期の堅実な手法を伝えている門である。
平成17年3月 仙台市教育委員会"
山門をくぐり、まっすぐな参道を進むと本堂があり、奥には庭園が配されています。回廊式庭園では、冬に備えた"雪つり"が始まっていました。紅葉もまだ残っています。
臨済宗妙心寺派 慈雲山 資福寺
紫陽花の名所として「アジサイ寺」の異名を持つ、臨済宗妙心寺派の寺院です。本尊は観世音菩薩で仙台三十三観音第三番札所となっています。鎌倉時代の弘安年間(1278~87)、山形県高畠町夏茂に領主長井時秀が建立したのが始まりです。元中2年(1385)、長井氏は伊達氏に滅ばされます。
関東十刹の一つに挙げられ、東北の学問の中心だったようです。
伊達氏が米沢に移った際、伊達五山だった観音寺と光福寺が吸収されたの資福寺だったようです。米沢の寺跡には政宗の父輝宗の墓が残っているそうです。戦国時代には、政宗の教育が任されたお寺です。天正19年(1591)に岩出山、慶長5年(1600)に仙台市東六番、寛永15年(1638)に現在地へ、伊達氏とともに移転しました。本尊:観世音菩薩
臨済宗妙心寺派 遠山 覚範禅寺
臨済宗妙心寺派の寺院です。仙台藩祖伊達政宗の父輝宗の菩提寺であり、政宗の生母義姫(保春院)の墓と政宗の三男宗清の供養塔があります。
天正14年(1586)、政宗が米沢遠山村に創建したのがはじまりです。遠山(えんざん)という山号の由来の様です。文禄元年(1592)に岩出山、慶長6年(1601)に仙台の愛宕山,翌慶長7年(1602)に小人騒動で焼失、現在地に再建されます。 本尊:聖観音
鐘楼の奥には仙台の街並みが見えます。見晴らしが良い場所です。
本堂の前には石の達磨が二体並びます。
向かって右が伊達政宗の生母である保春院の墓、左が政宗の三男である宗清の供養塔です。
"保春院の墓
向かって右、俗名を義姫(義子)といい、伊達政宗の生母。山形城主最上義守の娘で義光の妹にあたる。米沢城主伊達輝宗に嫁ぎ、政宗(梵天丸)と小次郎(笠丸)をもうけた。輝宗の死後、佛門に入り、保春院と号している。
小次郎を偏愛した保春院は、天将18年(1590)政宗を毒殺し、次男小次郎を擁立しようとしたが失敗、政宗みずから小次郎を成敗し、保春院は山形の実家へ去った。この事件については、小田原城攻めに遅れ秀吉の機嫌を損ねた政宗を殺さねば伊達家が危ないと、兄の義光に入れ知恵されたためとされているが、政宗が自分の出立後小次郎を擁立して背くものがあることを恐れ、一芝居打ったのではないかともいわれており、真相は定かではない。
事件のほとぼりがさめると、政宗は保春院と文通をしており、最上家のあと継ぎ争いにより領地を没収されたときには、保春院を仙台に向かい入れている。元和9年(1623)政宗は京都で保春院死去の報を受けた。保春院は夫輝宗の牌寺であるこの覚範寺に葬られ、その後政宗は南小泉に保春院を開基して牌所とした。
伊達宗清供養塔
向かって左、伊達宗清は政宗の三男で、幼名は権八郎、母は側室の新造御方(俗にいわれる飯坂の局は伊達宗清の乳母である)で京都伏見で誕生、所領は黒川郡を主として与えられた。寛永11年(1634)35歳で死去大和町吉岡天皇寺に葬られた。
平成3年12月 仙台市教育委員会建標
平成15年11月 当山再建標"
臨済宗東福寺派 無為山 東昌禅寺
弘安6年(1283)、伊達氏第4代当主伊達政依(まさより)が自らの菩提寺として桑折に創建した伊達家最初の菩提寺です。伊達五山の筆頭格。米沢高畠、岩出山、北山に移転します。当初は現在の青葉神社通りの北突端にありました。境内への青葉神社の造営にともなって、明治6年(1873)に現在地に移動しています。政宗が城下建設の際に最初に決定した場所が東昌寺だったと伝えられています。初代住職の大有和尚は政宗公の大叔父です。東昌寺は伊達家にとって重要な寺院だったことが分かります。いわゆる仙台六芒星の頂点が東昌寺となります。
政宗が城下の鬼門除けとして植えたと伝わる、推定樹齢500年の丸実榧(マルミガヤ)があります。2代忠宗の長男虎千代丸の墓があります。本尊:釈迦牟尼仏
赤松並木がある参道を上ります。
マルミガヤの他にも本堂前にはコウヨウザンとアカマツがあり、仙台市の保存樹木に指定されています。
臨済宗東福寺派 松陰山 光明禅寺
弘安6年(1283)、伊達氏第4代当主伊達政依(まさより)が伊達氏の始祖朝宗夫人の菩提寺として福島県伊達郡光明寺村に創建しました。慶長9年(1604)にこの地に移ります。慶長遺欧使節としてヨーロッパに渡航した支倉常長の墓、案内人であったルイス・ソテロの記念碑が建立されています。本尊:千手観音
支倉常長の墓です。
"伝 支倉常長の墓
支倉六右衛門常長は、伊達政宗の命を受け、慶長18年(1613)に慶長遣欧使節として180余人の使節団を率い宣教師ソテロを案内人として、牡鹿郡(現石巻市)月浦を出帆、太平洋と大西洋を横断して元和元年(1615)スペインのマドリードでイスパニア国王フェリペ3世に謁見しました。
ここで常長は外交交渉を行い、また、自身も洗礼を受け、ドン・フィリッポ・フランシスコの名を授けられました。次いでローマを訪問し、ローマ教皇に謁見してローマ市公民権を与えられ、貴族に列せられるなど歓迎を受けましたが、キリスト教弾圧、鎖国へと向かっていた日本の国内情勢の変化により、ノビスパニア(メキシコ)との通商、宣教師の派遣という目的を達することなく元和6年(1620)に帰国、不遇な晩年を送ったと言われています。
この墓は、中央の五輪の塔で、右に案内人ソテロの碑があります。
(常長の墓の所在については異説があります)
なお、常長が持ち帰った品々は、仙台市博物館に展示されており、平成13年6月に国宝に指定されています。
平成14年12月 仙台市教育委員会"
北山五山を巡ると伊達家の歴史の一部が垣間見えるのではないでしょうか。
元々は東昌寺の境内だった場所には、伊達政宗公を祀る青葉神社も建立されました。仙台六芒星のうえに五山があるのも何か意味があるのかもしれません。
"輪王寺と北山五山
輪王寺は嘉吉元年(1441年)伊達氏11世持宗が、祖母である9世政宗夫人の菩提寺として福島県伊達市梁川に創建したもので、伊達政宗公の仙台開府にあたりこの地に移った。
境内には、幼くして亡くなった政宗の八男・竹松丸と政宗の夫人愛姫の母の墓がある。自然豊かな中に三重塔、茶室を配する回遊式庭園が、静かなたたずまいを見せている。
北山五山は仙台市の北山一帯に点在する禅宗の寺の総称で、東昌寺、覚範寺、光明寺、資福寺、満勝寺のそれぞれが伊達家ゆかりの菩提寺になっており、京都五山にならってこの名が付けられた。満勝寺が移転したため、現在では輪王寺を含めて北山五山と呼ぶ場合がある。"
"輪王寺山門
輪王寺は、伊達氏11代伊達持宗によって嘉吉元年(1441)、伊達郡梁川(福島県梁川町)に創建され、伊達氏に従って仙台の地に移ってきた。現在地に移ったのは、慶長7年(1602)で、御一門格寺院として大伽藍を形成した。この山門が建立されたのは、元禄4年(1691)仙台藩四代藩主伊達綱村により仏殿、客殿などが整備された際になるものと見られ、明治9年(1876)の北山大火を免れた輪王寺境内唯一の遺構である。
三間一戸の八脚門(主柱四本の前後に控柱が四本ある門)で、切妻造、本瓦葺。柱はいずれも円柱で、棟の左右に鯱が載り、前面左右に仁王が配されている。江戸時代中期の堅実な手法を伝えている門である。
平成17年3月 仙台市教育委員会"
山門をくぐると、美しい景観のまっすぐな参道があります。この参道は歩いていて気持ちが良い道です。清々しい思いが湧いてきました。
鐘楼の奥には、なぜか?ロバが数頭いました。
明治9年(1876)の野火で焼失しましたが、大正4年(1915)に現在の本堂が再建されています。曹洞宗大本山永平寺と総持寺から任された福定無外和尚が再建に努力されたそうです。
本堂の右奥に進むと回遊式庭園があります。入園料が必要です。御朱印は庭園の入り口で頂くことが出来ます。四季を通じて草花を楽しめる庭園です。
昭和56年(1981)、開山五百回大遠忌を記念て建立されたという三重塔があります。庭のアクセントになっています。仙台市指定有形文化財に指定されている「釈迦如来坐像(寛文4年・1664年作)」が祀られており毎月1日と15日に御開帳があるそうです。
昭和15年(1940)、自然石を使用して建てられた五重塔(約7m80cm)です。戦死者慰霊の般若心経2600巻が埋蔵されているそうです。
冬に備えて、風物詩となっている"雪つり"作業が始まっていました。紅葉がまだ残っています。
紅葉が見ごろの時期に立ち寄ってみたい庭園です。
山門から境内を進むと、美しい景観の参道があります。本堂裏手の庭園とあわせて、ゆっくりと散策が楽しめるお寺でした。